2011年10月16日日曜日

ちょっと

南仏プロヴァンスにいってくる.

2011年10月1日土曜日

学位

報告というかなんというか.

とりあえず,学生じゃなくなりました.ノージョブです!


日本古生物学の父・矢部長克大先生の御神影と記念撮影.


2011年8月15日月曜日

近況とか

昨年の秋頃を最後に,3.11 の震災の被災記録(こっちのアップロードも止まってますが……)を除いてまーったくわたくしの状況を記載していなかったので(ほとんど購入記録しかない),近況をちょろちょろと.まぁ,ついったーには随時なにかはつぶやいていたんですけれど…….

……というわけで,最近(ここ一年?)の私.

  • 昨年 10 月末頃に博士論文の提出を三ヶ月ほど遅延させることが決定(未だに後悔は多いが,どーしようもなかったのは事実).
  • それに伴って,12 月末の論文提出締め切りが,4 月中旬頃に変わる.
  • 12 月くらいまで顕微鏡とお友達な生活.12 月末に博士論文の再検討終了.以降,執筆再開.
  • 1 〜 2 月はずっと英語と格闘.大枠の執筆が終わって,細かい議論の検討とかしてた.
  • 3 月 11 日,被災
  • 3 月 15 日の深夜に仙台を出て新潟を経由して北海道に脱出.
  • 4 月上旬まで北大に潜伏して博論執筆など.
  • 4 月 7 日の昼頃に仙台について,地震でぐちゃぐちゃな院生室の片付け→深夜に M7 クラスの余震で元に戻る,というマンガのような流れ.
  • 4 月中はなんだかんだで地震関連のお片付けが多くて大変だった.
  • 当然のごとく 6 月卒業は流れて,9 月卒業を目指すことに.
  • 5 〜 6 月.執筆と修正の連続.
  • 7 月上旬,博士論文一次提出.
  • 8 月 1 日,学位公聴会.
  • 8 月 10 日,博士論文最終提出.
  • ほうけてる←いまここ
……というわけで,いまのところ,なにか大きな問題が発生しなければ 9 月末をもって院生男子終了です.

2011年3月30日水曜日

震災被災記録7:仙台駅前へ

三日目「仙台駅前へ」

(※無計画に書きはじめたので,登場人物が増えてきたのに同一人物を章によって別の呼び方してたり,文体が安定していなかったりがありますが,全編書き終わったら,最終的に全編をリテイクするつもりなので,ご容赦を…….いちおう仙台脱出までの話を書くつもりです)

夕飯〜被災後ティータイムの後,すぐに解散し寝床につきました.

この頃には余震に慣れすぎて,震度 2 程度の余震では夜中に目が覚めるようなことはなくなっていました.しかし,大きめの余震があると夜中に目が覚めてしまう,十分に睡眠が取れたとはいえない,地震から三日目の朝でした.基本的に就寝時には,夜中に何があってもいいように,すぐに外に出られる格好(普段着+フリース+ジャンパー)でいたので,普段,楽に寝ている時の姿勢とはやっぱり違うらしく,寝起きには少し節々が痛んだりしていました.それでも,フィールドなど制限のある生活に慣れているせいか,普段より疲れの蓄積が大きい程度で,まだまだ頑張れる気力は残っていました(いま振り返ってみると,この段階で,かなり疲れやストレスが溜まっていたと思います.行動や当時の会話を思い返してみても,みんなこの日くらいから,確実にストレスと疲れでイラツキはじめていたと思います.僕は,ここに登場するメンバーの中ではかなり冷静なほうに分類されるつもりでしたが,多分,端から見たら相当に冷静さを欠いていたと思います.なので,これ以降のこの記録には,かなり僕の黒い部分というか利己的な部分が現れてくると思います.そういった記述に抵抗がある方は,この先を読むことはお勧めしません).

この日の朝ご飯は,前日同様,残っていた野菜(もともとあったキャベツ+前日に買った茄子)とサバ缶と冷凍庫に残っていた元冷凍米(自然解凍済みw)を使ったオジヤでした(ボソボソの冷凍ご飯の救済+水がないため,野菜を洗えないので煮込む必要がある).朝ご飯を済ませたあと,近くのコンビニにあった公衆電話に向かい,実家に連絡をしました(因みに,この時点で近所にあった公衆電話のうち,故障していなかったのはこの電話だけだったそうです.あと,電話代は掛かりませんでした).

その後,前日に申し合わせていた通り,僕,先輩 K,同期,後輩 K の四名で合流し,八木山動物園前のバス停から臨時運行中のバスに乗り仙台駅へ出ました.バス車内では基本的には,バカ話と K 先輩の買っていた新聞に載っていたニュースの話に終始していました(電気がダメだったので,テレビ,ラジオ,web の全てが使えず,これくらいしか情報源がなかった).ちなみに,この臨時バス便は一時間に一本出ていました.

駅に着いたあと,四人でかたまって,一通り駅の回りの被害を確認しました.駅はすでに立ち入りが禁じられており,内部の様子は伺い知れませんでした(このあと,個人行動をしているときに震災時に駅ビルのショップにいた,という人に会い話を聞きましたが,地震で天井が落ちるなどの大きな被害があったため,地震直後に避難誘導・封鎖されるくらい酷い様子だったようです).基本的な被害は,八木山や長町同様,地割れ,液状化による亀裂,穴が主体でした.広瀬通から繋がる跨線橋のアスファルトの路面に,かなり大規模なヒビが入っているにも関わらず,封鎖されていなかったのには少しひやりとしました.

その他には,前日に後輩 M から得た情報通り,駅前はすでに電気が回復していること,いくつかの店が在庫処分を兼ねて営業していること,(ほとんど売り切れてはいたものの)自動販売機が作動していて水分の入手が可能であること,などを確認しました.また,トイレや電源の開放をしている店舗などがあることを確認しました.また,バス乗り場では山形行きのバスが出ており,もの凄い数の人が並んでいる様子なども確認しました.

この散策の間,基本的にいつでも軽薄な後輩 K と,割と普段から神経質なところがある上にこの震災で疲れとストレスが溜まっていた同期との間が少しずつ険悪になっていきました(後輩 K が空気を無視して軽薄なジョークをいうたびに同期が苛つく,といった雰囲気).そして,そんな険悪な雰囲気が,全体の空気を悪くしていく感じで,ちょっとずつ全員のイライラが溜まっていきました.

駅前のぐるり探索ツアーで大方の駅前の様子がつかめてしまうと,僕は,イライラの根源(同期+後輩 K の組み合わせ)と離れるために各自解散することを提案しました.結果,各自単独行動をとることになりました(同期は帰宅,後輩 K は駅前のダイエーで買い物,K 先輩と僕は各自探索).

僕は,この時くらいから仙台離脱を本格的に考えはじめていたので,そのための情報収集,資金調達(七十七銀行が動いているのはすでに河北新報の朝刊で確認していた)に加え,電気局,水道局などで掲示されているインフラの復旧時期の確認,携帯の充電ができるスポット探しなどをはじめました.

「被災後ティータイムII」に続く.

震災被災記録6:被災後ティータイム

二日目「被災後ティータイム」

(※無計画に書きはじめたので,登場人物が増えてきたのに同一人物を章によって別の呼び方してたり,文体が安定していなかったりがありますが,全編書き終わったら,最終的に全編をリテイクするつもりなので,ご容赦を…….いちおう仙台脱出までの話を書くつもりです)

先輩 K,同期,僕の三人で電池式灯油ストーブのある同期の家に集まり,わけのわからない乾杯をして,酒盛り&雑談をしているうちに(注:僕は下戸なのでジュースです),我々以外の研究室のメンバーが現在どうしているのか,という話題になりました(携帯電話は電池式充電池で時々復活させていましたが,基本的にどこにいても電波が入らなかったので通信,連絡は不能だした).特に後輩 T はバイクを持っていて機動性がいいのと,行動力があるのとで,我々が持っていない情報を持っているんじゃないか,などという話になり,暗くなる前に一回研究室メンバーの様子を見て回ろうということになりました.その話が出た時点で,時間は午後 4 時を過ぎた頃だったので,すぐに研究室メンバーの住所を名簿で確認してから出発しました(電気がないと日没後は真っ暗です.また,この時点では当然,信号も街灯も復活していなかったので,夜に歩くという行為はかなり危険でした).

ついでに今後のことを含めて,みんなで夕飯でも食いながら喋ろう,ということで研究室メンバーに声を掛けることにしました.

……というわけで,以下,各研究室メンバーの震災後のエピソード聞き書きダイジェストのコーナー♪ 平均的な理系院生男子の震災時の反応,大公開だよっ!

〜B くん(D1)の場合〜
地震当日(3/11)の 18:00 から自分の追い出しコンパが予定されていた B くん(←実話w D1 で中途退学,就職のため).昼頃まで学校にいて,追いコンの前に今月末で引き払う家の片付けをしようとして,一旦,自宅に戻っていて,そこで被災したらしい(なので,地震直後に学校で探したときに研究室メンバーのうち彼だけがいなかった:一日目「被災」を参照).

地震直後,研究室の教官に「無事である」とメールを送り,そのまま基本的には自宅で待機していたらしい(地震直後は,メールなら送れたし届いた).我々は,震災当日,徒歩での帰り道の途中(18:00 頃),彼の家を訪ねていたのだが,その時に彼とは接触できなかったので,そのことを聞くと,「あ,多分,その位の時間はちょっと外に出ていました」とのこと.……もしかして,追いコンが実施されると思って待ち合わせ場所にいっていたんじゃ…….

彼の家は,水道がしばらく使えて,その水を溜められたことと,近所に在庫を吐いたスーパーが多かったことで,しばらくは耐えられそう,ということでした.

その日の夕飯を一緒に Do-Dai? と誘ったものの,結局,彼はやってきませんでした.……追いコン中止がよほどショックだったのでしょう…….

ついでに,彼の近所に住んでいた後輩 O くん(M1)の状況も聞くなどしました.

〜K くん(D1)の場合〜
被災〜帰宅まで行動をともにしていたので,まぁ,大丈夫であろうと思っていたらいちばんとんでもない状況だったのが K くんでした.

震災当日,翌日ともに,家のごく近所の散策を除いて,ほとんど行動せず,買い出しも行っていない状況でした.更に,ガスも止まっているため,家内の備蓄(米,パスタ)があっても調理もままならず,生米を水に数時間浸して食っていたらしいです.なんと言う,愚か者…….やっぱり,博士課程進学者とか社会的にはなんの役にも立たない専門バカだと思いますw 幸いにして,地震直後は貯水タンクに水が残っていたらしく,その水を 4 l ほど溜めていたため,水だけはそれなりに持っていたようです.

夕飯の話を振ると,二つ返事で我々に合流しました.……つーか,さすがに酷すぎたので強制保護しました.

〜M くん(M1)〜
被災〜帰宅まで行動をともにしていました.地震当日は,家に帰ってすぐに寝てしまったのでよく解っていなかったものの,翌朝,目覚めると,台所に作り置きしてあったカレーが飛び散っていたらしいです.これが我が研究室最大の被害@自宅です(なお,このカレーは 3/30 現在,まだ片付けられていないとか……w).

地震翌日は,近所の M1 である T くんと二人で買い出しを兼ねて被害状況を見て回っていたそうです(二人とも単車持ちなので行動範囲は我々より広かった).特に,僕らが行かなかった仙台駅方面の様子をみてきたようでした(逆に長町側は見ていなかったらしい).

夕飯の話をすると,合流しました.

この三人のほかに,T くん(M1)にも声を掛けようとしたのですが,アパートの部屋番号が解らず失敗しました.のちに本人に聞いたところ,「林さんたちの声は聞こえてきたけど,すでに寝ていたし,なんか面倒くさかったので出なかった」とのことw

そんなわけで集まった 5 人で,同期(oanus)の家にだらだらと移動し,夕飯になりました.夕飯は,余り物の野菜と肉,この日に入手した野菜などを適当に突っ込んだ野菜炒めでした.食卓をにぎやかなメンバーで囲っていることや,腐らせてもしょうがないと贅沢に肉と野菜をぶち込んだ,割と豪華な野菜炒めだったこともあり(一人はそれまでの主食が生米だったしw),真っ暗な中での夕飯でしたがなかなか楽しいものでした.

夕飯後には炭水化物の補給と称して,パンがないのでケーキを食べました.そして,ケーキの当てに oanus 氏がお茶を入れ,今後の相談や情報交換を行いました.この際の M くんの情報から,仙台駅前ではすでに電気系統が一部復旧していることなどを聞き,翌日,K 先輩,同期(oanus),後輩 K,僕の四人で,駅前に出ることを計画しました.


そんな被災後ティータイム(HTT).



「仙台駅前へ」に続く.

震災被災記録5:地学巡検・後編(長町)

二日目「地学巡検・後編(長町)」

(※無計画に書きはじめたので,登場人物が増えてきたのに同一人物を章によって別の呼び方してたり,文体が安定していなかったりがありますが,全編書き終わったら,最終的に全編をリテイクするつもりなので,ご容赦を…….いちおう仙台脱出までの話を書くつもりです)

同期と K 先輩の来訪で昼寝から目覚めました(来客用の原始的なブザーは生きていたのです).軽く準備して(といっても何があってもいいように普通にジャンパーまで着た状態で寝ていました),長町へ向かいました.

長町へ向かう道の途中,瀧沢寺の裏の墓地の横を通りました.墓地内はさほど被害を被っていなかったのか,新型の耐震墓石が多かったのか,墓石の倒壊は,多くはありませんでした(これは結構驚きました.卒塔婆や燭台やお供え物の散乱の方が気になる感じでした).しかし,古そうな墓石は,いくつか倒れていました.

鹿野小学校の脇を抜けて,286 号線に抜ける道を長町南方向に出る途中,八木山よりも表面的な被害が目につきました.特に店舗の看板の崩落,外壁のモルタルや吹き付けたコンクリートの剥落などがかなり目につきました.また,ガラス張りの美容院のガラスが割れている,車の営業所(日産)の天井に埋め込まれた空調が天井を突き破って落ちてきているなどのかなり大きな被害が目につきました.

我々は,286 号線を横断し,長町南のモールを目指しました.基本的に通電していない地域では信号もついていなかったのですが,主要幹線である 286 号の大きな交差点の信号はついていました.因みに,横断中に,286 号線の中央線付近に,かなり大きな地割れが起こっているのに気付きましたが,すでに地割れ程度は見慣れてしまっていたためか,さほど気にならなくなっていました.

モールに抜ける道に入ってしばらく歩いた後,遠目で仙台南郵便局を見て愕然としました.僕も,モールでの買い物ついでに頻繁に利用する郵便局だったのですが,二階建ての一階部分が潰れてしまっていました(このときはデジカメが学校の崩壊した本のどこかに埋もれている状態,携帯は充電切れでカメラとして使えず,写真等は撮れませんでした).急いで近くに寄ると,その悲惨さは目を覆うばかりでした(地震の発生は午後 3 時前,間違いなく郵便局には人がいた時間です.どうであったのかは知りませんが,重傷者や死者が出ていないことを心底祈っています).また,郵便局の隣にはグラウンド(?)のような赤土がむき出しになっている広い空き地があるのですが,そこにはほぼ南北方向(ちょっと記憶が曖昧なので違うかも知れません……)の大規模な地割れが走っており,広場の一角を液状化した泥水が覆っている,という状況でした(これをちゃんと写真等で記録しておけば立派な地質資料になっていたはずですが,これも記録できていません…….無念).その付近の歩道は,至る所でたわみやアスファルト割れが起こっていました.これらは,アスファルトの下の砂層が液状化した結果だと思われます.

長町モールの周辺は,もっと酷い液状化が起こっており,特にモール周辺の歩道はたわんでいないところを探すのが大変な状況でした.また,至る所で液状化した泥水が噴き出した後,泥水として吹き出してしまった結果,アスファルトの下の砂層がなくなったことであいた穴,アスファルトのたわみ,地割れなどが観察できました.長町に降りてくるにあたって,ちょっとだけ「モールが在庫の処分で物資を販売しているのではないか」という希望を持っていたのですが,あっという間にそんな幻想はぶち殺されてしまいました.恐らく,モール内部も床が歪んだり,床が抜けたり,泥水が噴き出したりといった被害が出ていたのではないかと思います(当然,敷地内は広い駐車場を除いて立ち入り禁止になっていたので実際にはどうなっていたのか確認していません).また,店内入り口のガラスの自動ドアが割れている場所も多々ありました.

モールの物販を期待していた我々は,ちょっと気落ちしながらモールをぐるりと一周するようにして,286 号に戻っていきました.途中も液状化の痕跡,地割れ,穴などが飽きるほど見られました.また,途中,多くの個人商店などがありましたが開いている店は,ほぼありませんでした.本当に被害の少ない八木山は特殊なんだな,と改めて思ったのを覚えています.

その後,我々は 286 号に沿って西進しました.286 号は山形方面の左車線だけに大量の車が並んでいました(この列の正体は,のちに仙台を脱出するときに判明したのですが,遥か先(数 km)のガソリンスタンドに並ぶ車の列でした.このときは「山形に脱出しようとしている人が多すぎて車がスタックしているのか?」とか話していましたが……).

286 号線沿いの店舗も基本的には営業していませんでしたが,焼き肉屋が一件,店の前で在庫の肉を焼いて販売していました.また,そのすぐ近くのケーキ屋では,ケーキのスポンジ,クッキー,洋菓子類,たまごなどを販売していました.そこで,K 先輩が「パンがないからケーキを食べよう!」というギャグを思いついたため,三人でケーキのスポンジを購入しました.

286 号からマミーバーグの脇を抜け,三神峯公園沿いの道を登って八木山に戻りました.途中,付近の避難所に指定されている芦口小学校を通りかかったので,中の様子を確認しました.芦口小学校は,八木山小学校とは異なり,体育館を開放して本格的に避難民を受け入れている状況でした.体育館の中には,ストーブが炊かれ,避難している方々が毛布にくるまっている,という TV でみるような「避難所」そのものの様子でした.それが地震の現実なのに,本当に運良く自分とその周辺が無事だったおかげで,現実と自分が乖離しているような気がして,ちょっと混乱するような変な気分になったのを覚えています.取り敢えず,次に大きな地震がきて自分の家の周辺がダメになったらここに来ればいいのだな,という情報をインプットして自宅へ戻りました.

帰りがけに,三人で近所の個人商店に寄って,まだ辛うじて残っていた野菜を少しだけ購入しました(市街地が意外とダメージを受けていることなどをみて,ちょっと危機感を持ちはじめていました).K 先輩と同期は,「どうせ明日も明後日も仕事なんてできないんだから飲もう!」なんて空元気を振り絞って,ビールを購入していました(僕は完全な下戸なのでジュースを).

そのままのテンションで,同期の家に集まってなんだかよく解らない乾杯をしました.

「被災後ティータイム」に続く.

2011年3月29日火曜日

震災被災記録(付録):震災直後の写真@学校

数少ないながら,写真を撮っていたので一部を公開します.


僕のデスク.机の上に耐震粘着下敷き(震度 7 まで耐えられるという売り)をつけていた金属ラックが綺麗にひっくり返って落ちています.プリンタとスキャナが乗ってました.

僕のデスクと oanus 氏のデスクの間.どっちも本持ちなので床は本の海に…….

居室の入り口側.霞んでいるのはホコリと天井からパラパラ落ちてきた白い粉のせい.本棚が倒れなかったのは,不幸中の幸い.


oanus 氏の机の反対側.こっち側にも oanus 氏の本は落ちてますねw

非常口側の廊下.積んであった貴重な文献が崩れちゃってます.奥にある岩石サンプルはキャスター付き台車に乗っていたので崩れていません.