2015年4月30日木曜日

まつり

志村貴子祭りが開催中な模様.

「娘の家出」 2 巻,「淡島百景」 1 巻,「わがままちえちゃん」を購入.「こいいじ」は少し気になったけれど,購入見送り(一気に大量に買うのもなんだし……).

読冊メモは後日.

2015年4月17日金曜日

読册

買った順番とかもめちゃくちゃだけれど,まだ,メモつけていなかった分を消化.

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「今日のあすかショー」 1〜4 巻 モリタイシ

よくネットに数ページだけ晒されているアレ.絵柄が割と好みだったのと,ちょっと興味があったので買ってみた.絵柄については,全編通してみるとそこまでよくもなかったけれど,漫画としては面白かった.

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「こんなエルフに用はない」 tenkla

よくネットに謎のエルフ汁だけ晒されている例のアレ.クソバカギャグだということなので買ってみた.クソバカギャグだった.読んでいる間は笑えるので,まぁ,いいw

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「人外な彼女」 高橋葉介

近年は,年に一冊のペースで刊行される高橋葉介先生の 2015 年新刊.(こんなこと言っちゃダメだけれど)高橋葉介先生の絵でさえあれば,最早,内容なんてどうでもいいくらいの高橋葉介信者なので(いや,内容も好きだからマニアなんだけれど),高橋先生の新作絵が年に一回刊行されるということが幸せ(最近は,復刻も多いから書き下ろしの表紙絵のためだけに全く同じ内容の短編が載っているのも全部買い集めている).

吸血鬼,蛇女,猫娘,魔法少女,鮫女,妖精が良かった.他は普通かな?個人的には,吸血鬼と妖精が特に好き.妖精のラスト,なんとなく「人間になった妖精が生き返るかどうか気になってつぶれるのを見逃しちゃう」感じに妙に共感してしまったw

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「純潔のマリア」 1〜3 巻+Exhibition 石川雅之

アニメになったので買ってみた.結局,原作を読んじゃったからアニメは見なくなっちゃったけれど,結構,オリジナル展開もやっていたみたいだから,ちょっと内容は気になったりしている.

話は面白かったけれど,ここまでどストレートな愛の讃歌みたいな話は読んでいる方が恥ずかしくなる.

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「押入れの少年」 1 巻 原作:高橋葉介,作画:みもり

なもり先生のなりそこない見たいな名前の作画だなとか思ったのは内緒.高橋葉介先生の原作ものは初めて買ってみた(「加護女」は連載時に何回か読んだけれど "お約束" を知らないのでピンとこなかった).高橋先生の原作がネームレベルなのか,文章原作なのか,プロットのみなのかよくわからないけれど,サトルとみこととお婆ちゃんの組み合わせとしめりちゃんに高橋葉介臭が漂う.その他のサブキャラはあんまり高橋漫画っぽくないかな?話は,学校怪談の中期(山岸くんが死ななくなったくらい〜九段先生が出てくる前頃)をやや子供向けにしたノリかな.

作画の人は,絵がこなれていないからあんまりだけれど,みことちゃんは可愛い.

「加護女」も買ってみようかな,と思わせる程度には,高橋原作というものを見直させてくれた.

2015年4月13日月曜日

補足

ひとつ前の記事.妙にアクセス数が多いので,あまりにも散文だったものを加筆修正しました.少しは論旨が明確になったと思います.

なお,「ブロントサウルス」で検索して,あんな古生物マニア全否定の記事を読まされちゃった人には,ごめんなさい.oanus 博士の晒し上げから,誤って,あのとりとめのない散文を踏んじゃった人には……,いや,その層はどうでもいいや(笑).あと,こんな記事をあげた以上は,責任を持って,件の論文には目を通しておきます.だからといって,今後,その論文に言及するとも思えないけれど……(心底どーでもいいから).

そういえば,この記事のリライトをしているときに思い出したから,素朴な疑問としてメモっておく.結局,例のトリケラトップスとトロサウルスの論文の件って,その後,どうフォローされているんだろう?……この辺も,気が向いたら調べておこうかと(とはいえ,あの論文は骨門外漢な僕が読んでも色々穴だらけだったんだけれど…….フリルの穴の問題だけに / ドヤ顔).結局,Triceratops horridus の holotype 燃やすしかないって結論になったんだっけ?(違)

ひとつ前の記事みたいな内容を上手くかける文章力が欲しいなぁ.過度に書きたいことが多い時に情報を取捨選択してまとまった文章を書けるようになりたい.

2015年4月11日土曜日

名前というアイコン

あまりにも散漫な文章だったのに,やたらとアクセス数が多いので,加筆修正しました(2015.4.13).

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最近,恐竜オタク界隈では,「ブロントサウルスの名前が復活するかも?」という話題が盛り上がっているらしい(伝聞).僕個人は,そもそも,この話題にさほど興味もないため,議論の起点になっている論文に目すら通していないので,議論の詳細は不明なんだけれど,界隈の反応を眺める限り,それなりに説得力のある論文のようです(てめーも古生物学の縁辺にいるならそのくらい読んでからコメントしろよ,というツッコミは想定内であり,ごもっともだけれど,本題はそこではないのでスルーします).

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本題の前に,前提知識として「分類」のことを少々.

分類っていうのは,非常に恣意的なものです.基本的には「これって別(新)種じゃね?」という主張と,学会の承認または反論を経ていることで,なんとなく決まっていきます(もちろん,定められた正規の手順を踏んでいるのは前提).なので,ひとつの分類体系というのは,基本的に仲良しグループ(学会)の内輪ネタみたいなものです.仲が悪いグループ同士で同じ個体に別な名前をつけていることすらあり得ます(この場合,学会の総体としては種の帰属が未定という扱いです).

また,それに加えて,分類,またはその結果生じた種というのは,分類に関わったことのない人が想像するよりもはるかに流動的なものです.今生きていて,DNA を使って検討ができるような現生の生物でも,分類は流動的なので,その形態のみ(しかも欠損部分が多い.軟組織は絶望的)だけから議論をする古生物の分類なんて,そもそも定常的な部分なんてほとんどありません.ゆるゆるです.

そして,一番重要なことですが,分類は科学ではありません(これ本当に重要).分類とは決められたルールに則った,議論と妥協と諦観の産物とも言えます(systematics の概念とか,ルールの詳細とかが気になる人は自分で調べてね).分類が科学じゃないのならなんなのか,というと一言で表すのは難しいのですが,これでも(古生物の)分類に関わった経験がある人間としては「ゲームである」と言っておきます.他の偉大な先生方のいう「(人間の)本能」であるとか,「趣味」とかの言い方も好きです.

(もちろん,上記は「わかりやすい」ことを目的として書いた以上,正確さや真実を犠牲にしていることを申し上げておきます)

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本題.

というわけで,ブロントサウルスにまつわる騒動の件です.

ブロントサウルスという名前が広く親しまれていた時代の記憶と,ある時期から「最近の研究ではアパトサウルスと同じであることがわかった」のお題目とともに図鑑や本から消え失せてしまったという記憶とを持っている世代の人(いま 30 代以上の恐竜好き)にとって,「ブロントサウルスという名称の復活」は,ある程度,興味深いニュースなのだろうと思います.しかし,そこまで大騒ぎするようなニュースであるとも思えないのに,一部のガチなマニアを超えて,ライトな恐竜好きである一般の人まで巻き込んで大騒ぎになっている様子は,僕には,やや大袈裟に感じるのです.特に,今回の論文では,新たに新個体が見つかったというわけでもなく,「既存の個体をたくさん調べたらこうなりました」という(多分に語弊があるけれど)労力がかかるわりに地味な分類の研究である当該論文に対して,ニュースをみた恐竜好きの反響が異常なまでに大きいのです.

以前,「トリケラトップスとトロサウルスが同種である」という論旨の論文が出たときにも(過剰な大反響という意味で)今回と似た様な印象を持ったのですが,この 2 つのニュースの共通点を見てみると,どうやら恐竜が好きな人たちにとって「恐竜の名前」というのが,なによりも重要なアイコンであるらしいと思い当たります(例えば,日本で未記載の恐竜が発見されたというような,よりセンセイショナルなニュースと比べても,この 2 つの "名前についての" ニュースは明らかに大きく取り上げられています).この辺の感覚は,古生物学にどっぷりな僕にはちょっとよくわからないところです.

古生物(学)に一定の専門性をもつ僕らからすると,とある標本が新種記載されて新しい名前がついたあとに,分類が見直されて既存の別種に組み込まれたとしても,その標本自体の学術的な価値が変化するわけではないので(正確にいうと,学術的には完模式標本ではなくなる [*]),(古)生物学を行ううえでなんの変化もないと考えます.もちろん,今回のように,元々,単一の種だと考えられていた標本群を再検討した結果,複数の種に分割された,という場合でも,"名前" という点にはあんまり注目しません.それは,言うまでもなく(古)生物学が「名前をつける」ための学問ではなく,標本(群)から様々な情報を読み取る学問だからです(もちろん,それだけじゃないのですが).

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[*] 完模式標本:新しい学名を提唱したときに記載の根拠となった標本のこと.ちょっと違うけれど,その種ではじめて見つかった個体だと思ってもらえれば良いかと.

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今回の論文で言えば,どういう標本(群)を用いて,どういう検討をしたことで,どういう結果が出て,その結果のどういう点を根拠にして分類が大きく書き換わったのか,というのが古生物学的に,古生物分類的に,意味があるところであって,それに付随して生じた「ブロントサウルス」の名称の復活はどうでもいい事象だと言い切れます.

この,僕らと一般の古生物ファンとの差異は,どこから生まれるのか?もっというと,古生物に興味がある人にとって,古生物学的に重要な点である論文の骨子ではなく,なぜ,どうでもいい "名前の問題" が重要であるかのように反応するのでしょうか?

その鍵は,人と古生物(学)との間の距離感にあるように思います.

古生物学をやっているわけではない古生物が好きな人は,化石を使って研究をするわけでも,研究の最先端に追いつくために論文を乱読するわけでも,場合によっては標本に実際に触れるわけでもないのでしょう [**].残念ながら,多くの古生物好きたちが触れられる「古生物」とは,古生物学の成果の上辺をなぞった本に書かれる知識や,カタログに載った化石の写真,そのカタログ上の記載文なのでしょう(もっとぶっちゃけて言えば,標本の写真や記載なんて読んでもいなくて,図鑑の復元画と体長なんかのデータ群なのでしょう).だからこそ,古生物ファン層にとっては,自分たちが容易に触れることのできる部分である,その古生物のアイコン,つまり,名前や絵(もちろん,化石の写真ではなく,肉のついた色とりどりのアレ)が大事になってくるのではないかと思います.

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[**] 好きな対象が,今回のように恐竜だったら,普通の人は,まず触れることができないと思います.広義の古生物学関係者であり,恐竜研究者の友人知人が多い僕でも,実際に恐竜の標本に触れた経験はかなり少ないです.

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この辺,僕らが「怪獣図鑑」を読んでいる感覚に近いのではないかと思います(「恐竜=怪獣」というアナログの話は,もともと oanus 博士の受け売り).怪獣は実在しないので,僕らが触れられるのは,その怪獣が戦っている映像や,コロタン文庫とかの怪獣図鑑の乏しい設定資料しかありません.それしかないのだから,ひたすらそれをなぞるしかないのです.残念ながら,多くの一般人は,実際の着ぐるみや設定資料,ましてや存在しない怪獣そのものには触れられないのだから,なおさらです.

古生物学に興味があるとか,古生物の形が好きとか,順当な興味からスタートした興味であっても,古生物(学)との距離が縮まらない限りは,古生物学の本来の面白さに触れることはできません.しかし,はじめに「面白そう」と思ったときの情動が,実際に古生物学にまで至ることはなかなかありません.結果,多くの古生物好きが,実物に触れるための努力を放棄して,実物に触れたくても触れられないけれど安易に知りたいという歪つな欲求を募らせて,たくさんの恐竜の名前を覚えたり,図鑑の記述を覚えたり,所蔵博物館の名前や標本番号を覚えたり,という間違った方向の努力に昇華してしまうというのは,なんとも皮肉なことです(これらのマニアの諸症状は実際にあった例です).なにしろ,図鑑のデータを覚える作業は学問的にも,学問に進むうえでの過程としても,ほとんど役に立たないのだから……(参考: http://sonicch.com/archives/40637699.html ).

ここで重要だと思うのは「恐竜が好きだから恐竜のことを知りたい」という子供に自然発生する情動をいかに学問の俎上に導くのか,というところなのですが,それはまた,別の話(この辺の話も,そろそろ書きたいけれど,また,今度).

増えているの構図,とか

「最近(近年),⚪︎⚪︎する若者が増えている」系の話題・記事.

基本的にネタ切れのライターの常套手段のようだけれど(類似品として「若者の⚪︎⚪︎離れ」とか,「⚪︎⚪︎性のない最近の若者」とか),当然これらは,個人の自己発信手法の多様化によって現・若者が過去の若者に比べて顕在化しやすいこと(=見かけの多様度が高くなっている),ひとつの情報の拡散速度が著しく高くなっていること,報道を称する媒体の数が増えていることなんかの背景からでる錯覚の産物にすぎない(のは,あえていうまでもなく,本題でもない).

ここで引き合いに出したいのが,我々の業界(趣味)でいうところの「化石記録の不完全性」という例のアレ.ネタ切れライターを研究者,ネタ探しのフェーズを調査・研究,SNS の発展を研究の進展,記事を論文に置き換えてやると面白いアナログ観察ができそうだとか思ったけれど,そんなことはやりません.

似たようなアナログ観察として,昔から,株価の時系列変化と古環境変動指標の曲線(主に炭酸塩殻生物の殻の安定炭素同位体比変動がいい)というのも面白そうと思っているので,株なんてやっていないのに,いまだに株価の推移曲線をニマニマしながら眺めては,著名な炭素同位体比変動にそっくりなラインを保存する遊びをしていたりする.

2015年4月6日月曜日

意識の変節

昔は三島由紀夫の小説が嫌いだった.

そのうち,高校生くらいになって,当時,付き合っていた彼女が三島好きだった影響で,いくつか読み散らして,三島の戯曲は「華やかで面白い」と思うようになったけれど,小説は一部を除いて,やっぱりあんまりピンとこなかった.「翼」とかは,美しいと思ったりもしたけれど,美しいだけなら川端でも読んでいれば良かったし,個人的な趣味で言えば谷崎が好きだった(鏡花はもっと好きだった/笑).

その後,大学で自堕落な生活を送っていた頃,一緒にソフトロックをやるバンドを組んでいて,よく(向こうだけ)酒を飲みながら音楽から哲学から学問から政治からグダグダと夜通し議論するような仲だった先輩が「春の雪」だけがすごい好きだというので,その影響で読んでみて,「ちょっと良いな」と思うこともあったけれど,どうにも「社会とか理想とかと自分の業をすり合わせるためだけに生まれたような文学」は好きになれなくて,社会に背を向けて自分だけに向き合う文学に耽溺して,無頼派から町田町蔵に至る系譜をなぞってばかりいた(太宰,安吾,椎名,町蔵あたりは未だにフェイバリット.最近は,とある本屋さんの勧めで西村賢太を読んでみようかなとか思っている).

そういえば,「春の雪」の映画は,自分の中で,心的・文学的な問題よりも目の前にある自然現象の問題を解明することの方が重要になっていた頃に,渡仏する飛行機の中で見たけれど,あの映画の竹内結子は綺麗だったな.邦画特有の画面の暗さはやはり好かなかったけれど,映画としてはよくできていたと思う.

最近,本当に年をとったと感じる.体力が衰えてきたとか,人並みに社会人になったとか,人並みに結婚したとか,そういうことも関係しているのかもしれないけれど,鮮烈な青春で,自分史のハイライトだと思い込んでいた,物心ついてから高校までの時代よりも,大学から今に至る時代の方が長くなってしまったことに気付いたことが大きい.この時期を,自分は取り戻すことのできない青春の追憶の中で「晩年」を生きていたつもりだったけれど,今思い返せば,この時代もこの時期特有の痛覚に彩られているし,結局,今の自分に至る全ては,この時代の全てで培われていて,好き勝手に生きて放蕩してきたことが,自分を社会の中に立たせていたのだったと,いまなら記せる.そうして,人間は(少なくとも僕は),自分の業だけではなくて,社会とも向き合わないことはできないとも気付いた.社会とか理想とかと自分の業は別なものではなくて,一個の人間にとっては,切り離せない内面的な問題かもしれないと,たぶん,この歳になったから気付いたような気がする.

たぶん,いまなら三島を読めるんじゃないかと思った.

手始めに,「豊饒の海」の続きでも読んでみようかと,自分の変節に想いを馳せながら,「今」を起点とした時に何年後かに,何年か,何十年か後に,また訪れるであろう,ひとつの自分史の区切りまでを,自分はどうするのだろうかとか思う.そうして,タバコの紫煙を吐き出して,モニターに残されたこの文章を「なんだこれは…….どうしてこんな文章になった?」と,読み返して苦笑しながら,とりあえず,更新ボタンをポチるのだった.

2015年4月4日土曜日

算数教育の話

子供の算数のテストで子供がとんでもない採点されていた系のエピソードを晒している親をたまに見かける.一番メジャーな奴は「かけ算の順序問題」として,わりとガチ勢も含めて教育論の議論になったりすることもあるアレなんだけれど,僕自身は,だいぶ前から本当にそんな問題があるのかどうかについてかなり懐疑的だ.何がいいたいかというと,ごく稀に(イカれた教員によって)発生する事案を小学校教員・教育全体の問題として過大にみているのではないかということ.

例えば,かけ算の順序(いわゆる「かける数」と「かけられる数」)を逆にしたらテストでバツを付けられたというエピソードに添えられている画像は数年前から使い回されているものであることが多い.もちろん,定期的に新しい画像も追加されているけれど,間違える小学生の数(×親が晒す確率)を想像すると,その画像のバリエーションは明らかに少ない(数の推定が間違っているかもしれないけれど).特に,以前に比べ,個人が容易にウェブを通じて主張ができるようになった現状を鑑みたら,もっと大量の変な採点画像が出回っていてもおかしくないと思う.

実際,自分が小学生の頃の教員を思い出してみても,そんなに理不尽な採点を受けた記憶はないし(もちろん,僕がとんでもなく優秀で一度も教員の意に反する回答をしたことがない生徒だったか,僕が奇跡的に良教員にだけしか会わなかったかのどちらかの可能性もあるけれど),そんなエピソードを当時も,子持ち知人の増えた今もリアルでは聞いた経験はない(俺様統計).

まぁ,そういう採点画像が存在している以上,日本のどこかにはイカれた採点の被害を受けた小学生がいることは事実で,それは,大変かわいそうな巡り合わせだと思うけれど,ほとんど事故のような稀なイベントは,その他の教育の重要な問題と比較して目くじら立てるようなことなんかな,と思ってしまうのでした.イカれた教師には僕も何人か会った記憶あるけれど,彼らが僕になんの(悪)影響を与えたかって,「世の中には馬鹿な大人もいるんだな」とか「イカれたおっさんの話を聞いてもしようがない」とか実感させてくれた以上のなんにもないもの.

2015年4月1日水曜日

結局,文字に戻る

良質なものを享受したいと思うと結局文字に戻るという結論に舞い戻った.

(自分のアイディアを具現化するための一定の才能があるのは前提として)アイディアを形にするときにかかるコストが低ければ,その分野は発展する.アイディアをもつ多くの人はそこに集中するし,コストがかからない分,バックも得やすいから市場も生まれやすい.そういう意味で,歴史的に文学(俳句,短歌,詩,純文学〜大衆文学,ライトノベルまで)が非常に広大なものになるのは当然だし,絵画もまた然り.漫画は,少なくとも日本においては,比較的,バックに対してコストがかからない分野だから,文学ほどではなくとも,やはり広大だ.

消費者を含めて分野が広大になると,バックに合わせた省コストの媒体も作りやすい.需要が少ないジャンルなら,その需要でペイするコストだけをかけて媒体を作ることができる.そうやって,裾野は広がる.

逆に具現化するためのコストが高いのは映像分野だろう.ひとつのアイディアを具現化するのにものすごい数の従事者を必要とする.特に,アニメは最も金がかかる部類の具現化手法だと思う.そういう状況だと,結局,自分のアイディアを具現化するために莫大な金額を簡単に投げ出せる人間(エル・カンターレとか)か,すでに(別分野で)売れている人間のアイディア(マンガ原作,小説原作とか)を持ってくるか,売れることが想定されるアイディア(をもつ人間)か,過去にものすごい儲けた人間(宮崎駿とか)くらいしか,アニメとして具現化するチャンスはないのではないかと思う(それでも,どんなに予防線を張ったところで失敗するものは失敗するし,思いがけないものが成功することも,少ないとはいえある).

コストがかかる限り,手に入りやすい値段でものが売れないから,ただでさえ売り辛いので,需要が多くないジャンルは,そもそも作られることがない.結果として,多様性は生まれにくい.それでも,購買層が十分に大きければ市場は徐々に広がっていくんだろうけれど,特にアニメは,ある程度の潮流を築いたメディアの中では最後発にあたるので,その他の(よりコストが低い)メディアとの需要の奪い合いに,まず,勝てない.勝てない分野は,そもそも売れないわけで,売れないと想定されるものは作られない.作られなければ,(アニメの中では)マイナーな需要を持つ層は,先行分野で需要を満たしてしまうので,アニメに期待をしないし,そもそも,見ることをしない.そんな負のフィードバックがアニメ業界にはある気がする.たぶん,これは気のせいではない.

よって,僕がものすごく好きになるタイプのアニメが売れないことが多い以上,僕は,アニメに期待をしても仕方がないということなので,結局,実写映画に,漫画に,文字に,戻っていくのであった.

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不思議なことは,アニメほどではないけれど,かなりコストがかかる実写映像は,アニメと比較して,はるかに広大な市場を獲得していることだ.実写映像とアニメとで差がついた理由があるとしたら,それはたぶん,最初期にターゲットとした層の質なんじゃないかと思うわけだけど,それはまた別な話.