ラベル 文芸 の投稿を表示しています。 すべての投稿を表示
ラベル 文芸 の投稿を表示しています。 すべての投稿を表示

2019年1月27日日曜日

万年筆個人史

筆記具が好きだ.そして,自分なりの拘りもある.

筆記具と一口にいうけれど範囲は広くて,元々の書道の流れから筆を集めるのも好きだし,職業柄,製図に手書き段階があるので,製図系のギアを集めたりするのが好きだ(使いもしないのに,ロットリングセットやテンプレートをたくさん持っているくらい).いまでも,基本的にルートマップの手書き段階の清書は付けペン,柱状図とか,細かいハッチはミリペン,メモなど普段使いに万年筆を使うなど,なんとなく作業ごとに筆記具を敢えて使い分けていたりする程度の意味のない拘りがある.

で,なんでこんな話になったかというと,最近,高価格帯の万年筆を 2 本も衝動買いをしたから.ちなみに,購入品は,Pilot のエラボー(細字ソフト)と Sailor の Professional Gear (中字).

--

私と万年筆との付き合いは,世代の割に長くて,中二病を発症していて,小説家とか詩人になりたかった頃,親父が持っていた(けれど使っていなかった)万年筆を(やや勝手に)もらって,それを使って,小説のようなものを書いていた頃にさかのぼる.

まぁ,結局,消しゴムで消せないから,万年筆使いは長くは続かないで(古いペンばっかりだったからすぐ詰まったりして手入れが大変だった),文章書きはシャーペンか鉛筆に移行したんだけれど,やっぱり万年筆は長く書いていても疲れないのがいいよね,とは思っていた.

その後,大学に入って大二病を発症した頃,若者市場の開拓を目指したのか何なのか,いろんなメーカーが 3000 円以下の価格帯の廉価万年筆をプッシュし始めた(Safari とか kakuno とかがある今ほどではないけれど).時期がマッチしたというか,万年筆を使っている自分に酔いたいくらいの年代に,そういうブームの走りが来たというのは,今に至る,一番大きな要因だと思う.

(今となっては,そんなに好きじゃないんだけれど)スチールニブのカリカリした書き心地が,いかにも万年筆を使っている感があって,特に,詩や歌詞を書いたり,曲を書いたりするときに使っていた(14K ニブに慣れた今となっては完全なる勘違いだけれど).

そんな万年筆事情が一転したのは,Pelikan Souverän M400 を入手(というか,現嫁からもらった)してから. それまでの万年筆のイメージ(古い万年筆の機嫌を伺いながら使う or スチールニブのカリカリ)がひっくり返った感じ.そんなわけで,スーベレーンは,今になるまで,10 年以上,筆記具のスタメンとして使い続けられている(だいたい,顕微鏡を覗いているときの記録筆記に使っている).

スーベレーンを使い始めて以降,時々,別な万年筆が欲しいと思ったこともあるんだけれど,買うに至ることがないまま過ごしてきた(スチールニブの廉価品は除く).いま思い返してみると,初めに至高に近いものを使っていたら,別なものに手を出す気はあまり起きないよね,ということだ.スーベレーンでアップグレイドしようと思ったら,M800 か M1000 だけれど,ちょっとお財布事情的に…….

--

……そんなわけで,かなり久し振りに買ったのが,先述の通り,エラボーと Professional Gear なわけだけれど,国産メーカー品だと,海外メーカー品の同ランクより 1/3 くらいの値段だな,とか思い始めてしまっている.よくないなぁ.

2015年5月8日金曜日

以前・以後

某所で,「漫画に詳しいという若者が大友の漫画の何がすごいか理解していなかった.嘆かわしい(意訳)」というつぶやきを見た.僕は,大友直撃世代でもなければ,彼の漫画の信奉者でもないので,ピンとこない感覚だ(もちろん,漫画の絵を大きく変えたという事実は尊敬するとして.あと「童夢」は好き).はっきり言ってしまうと,大友克洋の評価は,評論家の生み出した「大友以前・大友以後」なんていうスローガンが一人歩きをしている結果に過ぎないと思っている.大友に対する過大な評価は,現代アートなんかで,アーティストが評論家とタッグを組むことで生まれた商売のための過大評価・過大広告なんかと似た空気を感じる.これ,大友のメインフィールドが SF で,SF 好きがコテコテの評論芸の使い手だという背景と多分にリンクしている話なんだけれど,本題から外れるので,その辺は割愛.

なにが言いたいかというと,読者は,サブカル史とか漫画史の研究者なんかじゃないんだから,歴史的な背景なんて関係なくて,「読んだ時点」が「評価の対象」になるのだということ.冒頭のつぶやきのように,読者に歴史の理解を要求するなんて,そんな傲慢な話はない.大友のすごさが分からない若者なんかよりも,こんなつぶやきをしてしまう老害が発生していることに,漫画ファン層も随分と権威主義的になったんだと,残念な気分になるのでした.

2015年4月6日月曜日

意識の変節

昔は三島由紀夫の小説が嫌いだった.

そのうち,高校生くらいになって,当時,付き合っていた彼女が三島好きだった影響で,いくつか読み散らして,三島の戯曲は「華やかで面白い」と思うようになったけれど,小説は一部を除いて,やっぱりあんまりピンとこなかった.「翼」とかは,美しいと思ったりもしたけれど,美しいだけなら川端でも読んでいれば良かったし,個人的な趣味で言えば谷崎が好きだった(鏡花はもっと好きだった/笑).

その後,大学で自堕落な生活を送っていた頃,一緒にソフトロックをやるバンドを組んでいて,よく(向こうだけ)酒を飲みながら音楽から哲学から学問から政治からグダグダと夜通し議論するような仲だった先輩が「春の雪」だけがすごい好きだというので,その影響で読んでみて,「ちょっと良いな」と思うこともあったけれど,どうにも「社会とか理想とかと自分の業をすり合わせるためだけに生まれたような文学」は好きになれなくて,社会に背を向けて自分だけに向き合う文学に耽溺して,無頼派から町田町蔵に至る系譜をなぞってばかりいた(太宰,安吾,椎名,町蔵あたりは未だにフェイバリット.最近は,とある本屋さんの勧めで西村賢太を読んでみようかなとか思っている).

そういえば,「春の雪」の映画は,自分の中で,心的・文学的な問題よりも目の前にある自然現象の問題を解明することの方が重要になっていた頃に,渡仏する飛行機の中で見たけれど,あの映画の竹内結子は綺麗だったな.邦画特有の画面の暗さはやはり好かなかったけれど,映画としてはよくできていたと思う.

最近,本当に年をとったと感じる.体力が衰えてきたとか,人並みに社会人になったとか,人並みに結婚したとか,そういうことも関係しているのかもしれないけれど,鮮烈な青春で,自分史のハイライトだと思い込んでいた,物心ついてから高校までの時代よりも,大学から今に至る時代の方が長くなってしまったことに気付いたことが大きい.この時期を,自分は取り戻すことのできない青春の追憶の中で「晩年」を生きていたつもりだったけれど,今思い返せば,この時代もこの時期特有の痛覚に彩られているし,結局,今の自分に至る全ては,この時代の全てで培われていて,好き勝手に生きて放蕩してきたことが,自分を社会の中に立たせていたのだったと,いまなら記せる.そうして,人間は(少なくとも僕は),自分の業だけではなくて,社会とも向き合わないことはできないとも気付いた.社会とか理想とかと自分の業は別なものではなくて,一個の人間にとっては,切り離せない内面的な問題かもしれないと,たぶん,この歳になったから気付いたような気がする.

たぶん,いまなら三島を読めるんじゃないかと思った.

手始めに,「豊饒の海」の続きでも読んでみようかと,自分の変節に想いを馳せながら,「今」を起点とした時に何年後かに,何年か,何十年か後に,また訪れるであろう,ひとつの自分史の区切りまでを,自分はどうするのだろうかとか思う.そうして,タバコの紫煙を吐き出して,モニターに残されたこの文章を「なんだこれは…….どうしてこんな文章になった?」と,読み返して苦笑しながら,とりあえず,更新ボタンをポチるのだった.

2014年4月27日日曜日

陰鬱な夢想

最近,更新が滞りがちなのは,忙しいということもあるのですが,リアルが充実している結果,自分がダウナーモードに突入していることが大きな原因です.なんと言うか,文字を書いていても,陰鬱な気分に支配されてダウナーなことしか書けなくなっているので,書きかけの鬱々とした文章が目の前にいっぱいです.

こういうときは,大抵,リアルな世界が過剰にうまくいっているので,いたずらに死んでみせたくなります.昔から,気力が溢れてきて,色々,身の回りの物事が上手く回って,自分でも調子づいているときに限って,メランコリックな,といっても気力が湧いているので「鬱」とかではなく,精神面が暗く重くなっていくのは習い性なのです.基本的に,破滅願望が強いんですね.積極的なペシミストと言うか.オーバーヒートする前に,それを避けようとするような自己防衛のような気もしますが.

--

 簡単な朝食兼昼食をとって、気晴らしに外に出ようと思っても、なんとなくふらふらと車道に飛び出してみたくなったり、高いところに登ると落っこちてみたくなったり。当然、死にたくなんかないので、そんなことは思うだけでしないけど。なんとなく喫茶店に入って、PC にパチパチと英語の文章を打ち込みながら、緩慢な自殺とか嘯いて、気分が悪くなるまでタバコをふかし続けて(気付いたら、タバコが一箱空っぽで)、必要な文献のコピーを職場に置きっぱなしだったことを思い出して、ぐらんぐらんになった頭のまま、パッパラパーで家に戻ってくる。結局、家でも、また、仕事(趣味)をすると、意外と快調で、また、陰鬱な気分になる。一息ついて、夕飯を作っていると、切り刻む材料と一緒に手まで刻んだら面白いかなとか考えて、自分の肉で人肉シチューを作るグロテスクな想像をしていたら、親指を誤って切りそうになって、急に怖くなってしばらく呆然としたり、あやうく人肉シチューな現実になりかけたことに気付いて、おかしくて、一人で大爆笑して、一頻り笑って落ち着いたら、材料をぱっぱと切り刻んで鍋にぶち込む。ラジオを垂れ流しながら(自分の肉ではなく、牛肉の)シチューを煮込み、今度の休みの恋人との旅行中にふたりで崖から滑落してぐちゃぐちゃの肉塊になるなんていう自分たちの姿を想像したり(心中願望でもあるんだろうか?太宰治は好きなんだけど)、性交の最中に恋人を縊り殺すことを想像したり、リョナ趣味的に、殺害した恋人を美しく残酷に飾り付けたあとに自分の頭をショットガン(どこでどうやって入手するつもりだろう?)で吹っ飛ばすなんて気障ったらしい想像に赤面してみたり。そんな想像をしながら、いつの間にか出来上がった、よく煮えたシチューを白飯にぶっかけて、それをスプーンで口に運びながら、動画サイトで無料配信されているアニメを眺めると、話が飛んでいて、先週の配信期間に見逃していたことに気付いて嫌になって、課金してまで見る気も起こらないアニメを見るのをやめて、オーメンの DVD をかける。
「オーメンは、なんで2作目以降グダグダになっちゃったかなぁ」
 とか、画面に向かって呟きながら、時計を見ると、午後 8 時。午後 10 時じゃないから、「じゅうじか(野狐禅)」をかけて、ノスタルジックなセンチメンタルに浸る気分にもならないで、電子井戸端会議に「大事なファイルをクラウドに放り込んでおくのを忘れてヘコむ」なんて書き込みをして、誰に向けたわけでもない「今日は仕事をしない」宣言を発して、また、オーメンの画面に戻ると、ちょうど、墓の中の犬の骨が暴かれたシーンで。何度みても快感なカタルシスを得たところで、未だ物語が終末へ向けて進行中のオーメンの画面をぶった切りつつ、「そういえば、『人類は衰退しました』の不吉な黒い "タイムパラドッグス" って、ダミアンの黒い犬のパロディーなのかな」とか、どうでもいいことを思いついて、グーグル検索をしてみるけど、それらしきものはなにも引っかからなくて、「これに気付いたのって俺一人なんじゃないか」なんて妄想してみたりもするけど、冷静になるとそんな阿呆なことはなくて、こうやって、世界は陰謀論に埋もれていくのだ、なんて、嘯いてみて、食後のタバコを一服。
 人恋しくなって、物理的に遠距離な恋人に連絡したくなって、スカイプを起動して、恋人の顔を見たら少し元気になって、2 時間くらい陽気におちゃらけて道化てボケて、なんだか良くわからなくなって、今度の旅行の話をして、旅行が楽しみになって、旅行までは無事に生きようとか思って、北部北上の付加体に思いを馳せて、布団に潜り込んで眠りにつく。そんな私小説というフィクション。

--

どっとはらい.