2014年3月31日月曜日

脅威の更新頻度

なんで,こんなに更新頻度が上がっているかというと,リアル生活で追いつめられてくる程,駄文欲が増すからです.あと,生活のペースが掴めるようになってきたというのもあるかも知れません.

多分,新年度とともに,また,更新頻度が低下していきますので,悪しからず(虚空へ向けて).

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【付記】

いま,確認したら,こんなに更新頻度が高い(8 article/month)のは,2011 年 3 月以来でした(10 article/month).この月は,忘れもしない震災が起こった月で,震災で生じた「暇」を潰すのと,記録を残す目的で色々記事を書いたので,イベンティックなものだとすると,その前は,2010 年 7 月(11 article/month)になります.それ以前は,恒常的に毎月 2 桁以上の記事を書いているので,2010 年の夏ごろが,バウンダリーになっている模様です.ええ,D3 の夏ですね(ニッコリ).

この日記の更新頻度を Twitter の開始と関連づける説もありましたが,僕が本格的に Twitter をはじめたのは,2010 年 4 月末(仙台移住を期に開始)なので,直接的な関連性は見出せませんね.

年度末雑感

現在の職場で働きはじめて,今日でちょうど 1 年目でした.

年度末ということで,大幅な人員の入れ替えやら,席替えやらがあって,今日は朝から晩までずっと席の引越し作業に明け暮れたのでした.問題は,朝の 9 時から 12 時間(昼休憩 1 時間)かけても,6 割がたしか片付いていないということなのですが,僕の元の席(4/1 付けで着任する人の席)からは,全ての物品を撤去できたのでいいことにして,(疲れた上に風邪気味で体が重いので)帰宅しました.

しかし,実感として,1 年という時間が経ったとも思えないくらい短く,逆に,1 年という時間とは思えないくらい,職場に馴染んでしまっている気がするのは,僕がふたつの意味で年を取ったということなのだろうと思います(馴染んでいる件に関しては,職場があまりにも院生部屋の空気を醸しているからのような気がしますが……).

3 月は別れの季節でもあり,自分の蔵書が増強される季節でもあります.1 年という短い期間とはいえ,非常にお世話になった上司の方々が何人か退職されたりと,寂しいこともありますが,その分(?),自分の周りの本の山が斜面崩壊を起こしそうな程度に増えたりと,なんだか妙な気分です.

なお,本年度末で,自分の所属する研究グループは退職される方と,人事異動で出て行く方を含め,人員のほとんどが入れ替わるという,なんとも大胆な人員転換が行われてしまったので(流石に僕は 1 年目なので異動しませんが),明日からは雰囲気がガラッと変わってしまうということで,期待と不安でドキドキしている現状です.しかし,上司が(直属の人に限れば)全員,同じ大学の同じ学部の同じ研究科の同じ講座出身って,僕はどうしたらいいのでしょう?(苦笑)(なお,直属の人に限らなくても研究科までは,ほぼ全員一緒な件).

なにはともあれ,また,次の 1 年を頑張ろうと思います.今年度よりは,ペースも掴めて,仕事(本業と趣味)も捗ると思いますし…….

2014年3月30日日曜日

百合幻想

「放浪息子」を読んでいて,ふと思い出したこと.

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女装欲なんて持ったことはないし,お祭り的なハレなハイテンションでのお巫山戯の女装くらいしかしたことはないけれど,もし,自分が女装できるくらい「可愛かったら」,女の子の格好をしてすごく可愛くなりたい,という欲求は分からないでもない感情だと思います.おそらく,それは,もし,自分がイケメンだったらあーいうファッションをしたいとか,自分がもっと華奢だったらあーいう格好も似合うのかもな,というファッション誌を眺めつつ憧れる感情とか,そういう感情に近いと思うからです.まぁ,いまではファッションに無頓着なおっさんになってしまい,そんな感情とも無縁にはなっているのですが(ファッションは,自分のサイズに合うかどうかが最重要事項!).

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それとは別に,自分が「女の子」になりたいと思ったことがあった,という事実を,唐突に思い出しました(ゲイ話とか性同一性障害話とかではないので,BL 展開を期待している腐った人は読まなくていいですw).

それは,僕が百合とかエスとか,そういう世界に目覚めた中学〜高校にかけての頃(この話はこの話で長くなるのでここではしませんが),今みたいに「百合」がサブカルの中でもジャンルとして確立していなかった頃のことなので(「百合」が本当に隠語だった頃です),そういうジャンルの本なんてほとんど手に入らないし,手に入ったところでおおっぴらに読むことも出来ませんでした(たしか,吉屋信子ですら再発されてなかったんじゃないかな?いまは百合が一般化して,女の子同士の友情ものみたいなライトなものから,性交を伴うガチなものまで,よりどりみどりで選べるなんて,夢のような世界ですね!).当時は,本当にそういうジャンルのものを集める術がなくて(15 年くらい前なのでネットも今みたいな状況じゃなくて,本当に情報すらほとんど手に入らなかったのです),限られたお小遣いで普通の小説に少女小説を挟んで購入しては(恥ずかしいから),その数少ない何冊かをぼろぼろになるまで読む,なんてことを繰り返していました.

そんな当時の僕の「百合欲」が,中高生特有の膨大な妄想力で暴走した結果,「自分が女の子になれば自在に百合れるのかなぁ……」と考えて,自分が「可愛い女の子」になって,「ある女学校に入学した私を,憧れの先輩が『お目』にしてくれる日々」なんかを妄想しては,性欲とは違う微妙な感情の渦に飲み込まれて,結果,自慰をして,罪悪感とも絶望感ともいえない感情と射精後の,いわゆる賢者モードな虚脱感のなかで呆然とする,なんていう日々を過ごしていたのでした.

今思い出してみても,心の底から気持ち悪いのですが,趣味として百合ものの小説を書いている今,「自慰→呆然」の過程を除いたら,ほとんど同じような感覚でものを書いているなぁ,と気が付いて愕然としたりしてしまいます.

……とか,書いていたら,もうひとつ,決定的に気持ちが悪い,「女の子になりたかった」話を思い出したのですが,こっちは,長くなるので,今度,別記事で書こうと思います.

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その次に,「女の子」になりたいと思ったのは,高校三年の秋〜冬にかけての時期でした.こっちは,ちょっと先に書いた話とは毛色が違っていて,僕の百合好きとは無関係な話です.

当時,僕には,付き合っている女の子がいて,この子が,いわば「放浪息子」の高槻くんみたいな「女になりたくない(と思い込みたい)」女の子だった(と僕が当時思っていた),という話です.未だに,この頃の人間関係とかが完全に消滅しているわけでもない話だし(SNS の弊害),あんまりリアルな話は,登場するかもしれない人を傷つけるかもしれないので,自分の中で消化してからうすーいフィクション(出来れば,僕が究極に気持ち悪い人間になるようなギャグ)にできたら公開しようかな,と思います.

2014年3月27日木曜日

志村貴子熱

そんなわけで,相変わらず,志村貴子熱が冷めない.その後,「放浪息子」も全巻揃えちゃったぜ!

「放浪息子」は,今回の志村貴子熱より前に 6 巻くらいまで読んで(確か喫茶店で),その頃にアニメ化して,アニメがあまりにもよく出来ていたから,その余韻を殺したくなくてそこで止まっていたんだけど,今回の志村貴子熱で改めて全巻通読して,いい意味で脱力した.ラストというか,最終巻はものすごい勢いで風呂敷を畳みにきていて,ややもったいない感があるんだけど(もっとこの話を読みたいって意味で),ラストのあんなちゃんの可愛さが全て持ってっちゃうよねー.というか,あんなちゃんが可愛すぎてヤバい.あと,ささちゃんは天使.

さて,次は「敷居の住人」を読み直すか(違います.仕事です.あなたには時間外にやらなければならない膨大な仕事が残っています).

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志村作品で,僕が個人的に痺れてしまうのは,クソみたいなキャラが徹底的にクソみたいな人間として描かれているところです.例えば,「青い花」の杉本先輩とか大戦犯千津ちゃんとか,「放浪息子」の高槻くんとか,心の底から腐りきっている人間を,ちゃんと腐りきって描けるというのは,娯楽性が重視されるマンガと言う媒体ではなかなか難しいと思います(流石に,千津ちゃんはクソ野郎過ぎて描写少ないけどw).

また,登場人物の正確の一貫性が保たれないリアルさが魅力的だと思います.まぁ,これは,作者のキャラ付けのブレが効いているような気がするのですが,時間の経過とともに感情とか,考えとか,そういうものがブレていく様が非常に人間くさくてたまりません.「青い花」なんて,それでいて,最後に初恋が勝っちゃうんだものなぁ.そこら辺の,ファンタジーとリアルさの狭間のフィクションでしか表現し得ない空間が,とても好きなのです.

2014年3月25日火曜日

書店考

今日,たまたま,欲しい本があったことと,仙台帰りで日中に駅前に居たこととで,市内の大型書店を巡って,その本(ちょっと前に出た本ではあるものの,メジャーなもの)を探して歩いたのに,見つからなかったという徒労の中で,ちょっと考えたこと.

ちなみに,数日の旅行帰りだったので,荷物も多く(ちょっと研究関連の打ち合わせもあったから諸々の資料も持っており,普通の旅行よりは過剰に荷物もありつつ),過度に疲れたという側面も否定できないものの,基本的には「街の書店の存続」を願う側の自分ですら,やや現行の書店システムに不満を感じてしまうような暗黒面に落ちかけたのでした…….

基本的に,本を買おうと思う際に,何を重視しているのか,ということが,書店という存在を決定づけているものだと思います.僕の場合,大きくわけて,(1)中の情報が欲しい,(2)冊子体で手に入れたい欲求がある,(3)ビブリオグラファー的な視点からその一冊が欲しい,という 3 つの段階があります.もちろん,ほとんどの場合は(1)で,(2)はそんなに多いことではなく,まして(3)は,ほとんど起こらない欲求ですが,稀にそういう欲を刺激される程度には「物」に対して欲を持っていると言えます.これを,買う本の種類で分けるのであれば,僕の場合,(1)は教科書や学術書,新書,ハウツー本,雑誌,ちょっとした合間に読みたい小説など,(2)はマンガ,じっくり読みたい小説など,(3)は絶版本(主に教科書),特定のものが乗っている雑誌,古い限定本などのいわゆる稀覯本などにわけることが出来ます.

僕の場合,ある程度の電子書籍は当然,生活に組み込まれていて,論文,教科書(ぶった切ることに抵抗がない自炊済みのもの),青空文庫,冊子体が邪魔になる類の本(情報系の雑誌,新書が多い.大体の場合,(1)の本に当たりますが,「青空文庫」に関しては,単純に金銭的な問題です / 笑)などは,電子書籍として利用しているものの,Phycho-Pass の槙島さん的な意味で,「紙の本が好き(要は(2)的な感情)」なので,結構な数の本は冊子体を購入しているのが現状です(単純な好みの問題で,電子書籍がどう変わればいいとか,そういう問題でもないのです.ページを捲る感覚,リズム,積むことによる存在感,重量感などの物質的な存在.[愛読書になればなるほど馴染む] ザックリとした検索性能.書き込みの利便性.読み込まれることで古く壊れていく過程などなど,本と自分との間にある物理的なやりとりが好きなのです).

そこで,冊子をどう買うか,というのが僕の中での問題になります.

僕は,普通の人に比べると,Amazon のようなネット通販をはじめたのが遅く(これは,単純にクレジットカードを持ったのが遅かったということで,ネット通販にアレルギーがあったとかではないです),5, 6 年くらい前までは,基本的にどんな本に関しても新古書店に足を運んで購入していました.まぁ,本を能動的に買うようになってから今まで,基本的に都市部に居住していたので,よほどのことがない限り手に入らない本というのは,なかったように思います(とはいえ,古い教科書なんかは古書店を巡っても手に入らなかったりしたことはありましたが,そういうときは諦めるということも,当時は,知っていました).

しかし,Amazon をはじめとしたネット通販を利用し始めると,その辺の状況が一変しました.まず,よほどの稀覯本以外は「諦める」ということが出来なくなりました.それと同時に,ちょっと探すのに苦労しそうな本だったり,実物の状態・内容を問わずに手に入れたい本(絶版古書とか,取り敢えず外れなさそうな教科書とか,特定の作家の本とか)だったりした場合,ほとんど書店に行くことはしなくなりました.まぁ,それで,さしたる問題が生じたことはないのですが,どうしても,中身を確認してから購入したい本であったり(複数の同系統の本のうちの一冊を選びたい,とか),本そのものに愛着を持ちたかったりすると,書店で実物を確認したくなり,書店に赴くことも多いです.なにより,書店という空間で,じっくり時間をかけて本を選ぶ,という作業にも愛着があるんでしょう(紙の質感とか,印刷とか,装丁とか,下らないことも含めて,この作業を経ているかどうかで,結構,良書を選り分けることが出来るものなのです.何も考えずに Amazon でポチって失敗することはあっても,この過程を踏んで,外すことは,ほぼないので,資金力に限りのある貧乏人にとってはバカに出来たことではありません).もちろん,本屋で運命的に(と自己満足に浸りつつ)良書と巡り会うという快感もあります.こういうことは,(良くも悪くも)雑多にたくさんの本が並んでいる,書店という空間ならではの快感だと思います.

もっと気持ちの悪いことを言うと,僕の求めている本が(1)ではなく,(2)に属する場合など,いわゆる(そして,最近,某作家のツイートで話題になった)研磨本の件など,どうしても実物の状態が「いい」ものが欲しくなることだってあります(通販で,傷のついた本を掴まされた経験など,僕でなくてもあるでしょうし,それは,気持ちのいいものではないという感覚は,研磨本に対する忌避感に比べれば,一般的だと思います).

そんなわけで,僕は,書店が好きです.当然,(僕にとって)冊子である必要がない「情報」であれば,どんどこ電子化していって欲しいと思います.また,Amazon をはじめとしたネット通販,日本の古書店などの古書店ネットワークなどの利便性は,とても大きいものだと思いますし,それは,今後,もっと発展していって欲しい分野です.しかし,やっぱり,書店には,今後も存続して欲しいとは思います.

しかし,まぁ,今日の徒労でも感じたことですが,書店というシステムは,完全に時代に取り残されているのだなぁ,と感じることもままあります.空間的な制約による在庫の有限性,書店員の数とワークバランスの結果生じる選書や管理の不徹底,知識不足などのどうしようもない部分に関しては,まぁ,そういう不便さに対する愛着も湧くものですが,未だに,クソみたいなインターフェイスの無能検索機を堂々と置いていたりする無神経さなんかには,腹が立つことが多いです.

完全なる斜陽業種で,いずれ消え往くことが決まりきっている存在でもあるのでしょうけれど,願わくば,僕がそれを楽しみたい限りは,存続してくれることを.

2014年3月16日日曜日

青い花

だいぶ前に,完結していたことは知っていたけれど,なんだかんだで(去年〜今年が)忙し過ぎてフォローできていなかった分に追いつきました.

アニメ化が決定した頃に存在を認識して(アニメを見ずに),当時,発行済だった 3 巻までを購入したっきり放置していたのですが(積んでいたわけではなく,単に「この程度か……」と思ってそれきり放置していた←今更後悔している),最終巻まで一気に買い込んで通読しました.当時,アニメをちゃんと見なかった理由は,あんまり覚えていませんが,私が日常的に(顕微鏡を覗いているときの暇つぶしに)アニメを見るようになる前後のことなので,単純に存在をスルーしていただけかと思います.

とにかく素晴らしいのひとことしか出ない作品でした.最後のほうなんて,常に「俺ちゃんはすぐ泣くんだから」状態でした.

あーちゃんマジ天使.

この作品で,唯一,不満な点があるとしたら,あーちゃんがマジ天使過ぎて,男だろうが女だろうが,そもそもあーちゃんに恋をしない人類なんて存在しないんだから,百合とかじゃないよね,とか思ってしまうところくらいです.

純文学の名作を上手く使っているところも好感度高いです.特に,「鹿鳴館」の使い方が神がかっていて,とてもいい(三島は小説はゴミカスのようなつまらないものばっかりだけど,戯曲に関しては天才だよな,と,これを切っ掛けに再読して思ったりなんだり).「第七官界彷徨」も(というか尾崎翠も)久し振りに読みたくなった.

アニメがあんまりうまくいかなかった理由のひとつに,「鹿鳴館」の手前で止まってしまったからというのもあるんじゃないかな,と思います.というか,「鹿鳴館」までは,ほとんど前フリみたいなものな訳で……

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結果,俺の中で志村貴子ブームが再燃して,取り敢えず「放浪息子」を買いはじめている今日この頃.安那ちゃんにキュンキュンして,ささちゃんがまたマジ天使で,頭がかゆくなる日々です.

あ,そういえば,俺,「青い花(元ネタ)」って読んだことないんだよな.いまなら,激甘なドイツのロマン主義文学でもイケちゃう気がするぜ!

2014年3月15日土曜日

x 細胞は深い夢をみる

※僕の立場を簡単に言うと,サイエンスという巨大な山の麓で右往左往に蠢く有象無象の一人でしかないものです.この記事で触れようかと思うトピックに関して,一部についてはある程度の識者としての専門性を有する部分も含んでいるものの,多くの部分,とりわけ,問題の根幹にあたる生物学に関する専門性は持っていないので,その部分の判断は保留するし,深入りできません.この記事は,単純に,自分のための備忘であり,一連の疑義の過程で,自分がどこら辺にまで思考して,どのくらい問題を捉えられているかの記録でもあるので,非常にパーソナルな内容になると思います.本当は,もっとしっかりとした結果(例えば,理研の最終報告や正式な論文の取り下げなど)が出てから書くべき内容だと思ってはいるのですが,あまりにも問題が長引き過ぎたので,このあたりで,自分なりにまとめておきたいと思ったので,取り敢えず,いま,書いておこうかと思っているのです.

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なんだかなぁ,と思います.最早,脱力気味に事態を眺めている今日この頃です.

本当は,物事が完全に終結してから何かをコメントしようかと思っていたのですが,どうも,この件は,僕程度の人間じゃ,単なるワイドショー的なコメントをするのにも,思考実験をするのにも,話を展開させて身近な落としどころをつけたコメントを述べるのにも,どうにも手に負えない段階まで至っていると思います.あまりにも問題が複雑で,あまりにも騒ぎが大きくて,その過程で起こった出来事があまりにも「最新過ぎて」,もはや,この件に関して,冷静に,正確に,全てを総括できる人間なんていないのではないかと思います.その証拠に,僕なんかよりも優秀なサイエンティストの多くの間でも,コメントをする際に「問題の切り分け」にすごく気を使った発言が目立つようになってきているくらいです.

この件とは,最近,巷間を賑わせている STAP 細胞の論文とその著者を巡る,あれやこれやのことです.

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当初,この論文のニュースが流れた際,僕がはじめに抱いた感想は,単純に「(単純に成果も,同い年で Nature に載せたという事実に)すごいなぁ」という感嘆と,世の中の多くの人が感じていたであろう「本当かよ?」という薄らぼんやりとした不安でした.生物学,ましてや最新の細胞学に関する知見なんて,そこら辺の一般人に毛が生えた程度にも持ち合わせていない僕にとっても,「酸に浸すだけで万能細胞が生まれる」という「簡単さ」(その段階では速報ニュース記事以上のサーチをしていなかったので,この程度の印象でした)に,やや違和感を覚えていたわけです(ES 細胞や iPS 細胞がどういうものか,という程度の知識はあったので,この「簡単さ」に違和感を覚えたのは,まぁ,普通の感覚だと思います.逆になんの批判的な感覚も持てない人は,たぶん,科学に向いていないと思います).

この件に関して,(自分の専門外の)他の科学ニュースよりも,やや余分に興味をもったきっかけは,筆頭著者である氏が,同い年で,同じ千葉県出身で,僕の母校と色んな意味で近しい千葉の進学校出身だったからという部分が,僕の中では大きかったと思います.それとともに「温泉(弱酸性泉)に浸かったときに『STAP 細胞になった』とかいうネタが増えたな」などとバカなことを考えていたものです.

その後,氏が(大きな研究を成し遂げた研究者としては異例に)若い女性であったこと,彼女自身が女性性を隠すことなく,いわば「女子力」を強調してアピールしたことから,報道がサイエンスとはかけ離れた部分に加速していく過程を眺めながら,いわゆる「リケジョ報道問題」や,そういう報道に対して,彼女自身が自分の「女子力」を前面に押し出してアピールをしていたという事実,に対する理研の「報道自粛勧告」とともに,僕は,「理系」という人間の括り方や,女性研究者の立ち位置などに関して,考えていました.一回目に,この件について記事を書こうと思ったのが,このときです.

当時の僕の率直な感想は「自分から,『女』をアピールしていたのに,報道がその部分を中心に過熱してることに文句を言うのってなんかアンバランス」というものでした.実際,女性研究者がプレスリリースするような研究を為したときに,ここまで「女子」を前面に押し出したアピールをした例を他に知らなかったので,マスコミの安易な報道を助長するようなアピール手法にやや疑念を抱いてもいました(もちろん,そういう部分しかフィーチャーできない低レベルなマスコミ,科学報道という部分の問題もあるとは思うのですが,この件に関しては,それを分かった上での確信的な広告だったんじゃないかと,いまでも思います.それが悪いとは言いませんが,下品だとは思います).

多分,僕が,まだ大学にいて,こういう記事を書く時間があったとしたら,この時点で記事を書いて,後ほど晒す必要のない恥を晒していたかも知れませんが,幸いにも(?)目の前の仕事が忙しくて,そういう「遊び」をする時間がとれない間に,例の「画像改竄疑惑」,「画像の取り違え」などが噴出するとともに,「簡単な」はずの STAP 細胞の再現性がとれないなどの報告がポツポツと入ってきました.

この辺りで,この論文にまつわる様々な事象が「重大な問題」に変わっていったと思います.僕は,この時点で,問題のあまりの複雑さに,専門外な自分が安易に意見を挟むべきではないと判断して,結論が出る頃まで,この件になにかのコメントをするべきではないと判断し,書きかけていた「リケジョ」云々の記事をお蔵にするとともに,STAP 細胞関連のニュースを,きちんと追いかけるようになりました.

「画像」に関する疑義が生じはじめた頃にオープンアクセスになった論文を門外漢ながらなんとなく読んでみた自分の印象は「(理研の言うように)STAP 細胞の実在性に関する部分とは直接は関係ないものの,あまりにも杜撰すぎて,ちょっとサイエンスに携わる人間としてどうなんだろう」というものと,「STAP 細胞(という概念)が,嘘や捏造にしては,あまりにも『オリジナル』な考え方に基づいているので(捏造や嘘は概して,『それらしい』もので意外性は伴わないことが多いという経験則),そのもの自体は本当にあるのだろうから,もっと丁寧に適切に論文を作れなかったのか?」という素朴な疑問でした.この時点では,露ほども「捏造」とか「悪意」というものの存在は考えていませんでした(とはいえ,この「杜撰さ」はサイエンティストとして信頼できない,共同研究者にはしたくない,という感覚は芽生えはじめていました).

その後,共著者の一人が「小さい万能細胞」という考え方をかつて創意していたこと(そして,それは明確な証拠を示せずに学会で黙殺されていたこと),「STAP 細胞」はそれに沿って考えられた概念ではないかという疑惑がネットの片隅で語られているのを目にして以降,僕の中では「これは,ちょっと洒落にならないかも知れない」という評価に傾きはじめました.例のスラドブログ(ケビン・コスナーとかのアレ)を目にしたのもこの頃で,門外漢の自分には立ち入ることも出来ないレベルの大問題に発展したことを認識しました.これ以降は,完全に傍観者として,眺める人になるとともに,この件に関しては,「査読」とか,「論文を書くということ,研究ということ」とか,「理科研究のシステム」とか,「若い女性研究者という存在」とか,そういう部分をアウトリーチするようなコメントしか出来ないな,と感じはじめました.

さらに,この流れや疑義が決定的になったのは,著者の過去の論文における「問題」や,ちょっとありえないレベルの「コピペ」が発覚したあたりでしょうか.この辺りで,「STAP 細胞の実在性」とか「論文そのものの問題」とか「ミスと故意の境界」とかいった問題の埒外で,著者のサイエンティストとしての自覚の問題や,信用と相互監視によって成り立っているサイエンスという山の内在的に抱えている問題が「世間の耳目に触れた」ことに関連して生じた誤解や偏見や無責任な放言などまで話題が広がってしまい,もう収拾がつかなくなってしまった,という感想を抱きました.暴走しはじめた機関車を誰も止められなくなってしまった,と.

一方で,こういった一連の出来事に関して,理研がなんの具体的な見解も提示しなかったことには,疑問と不気味さを覚えました.確かに,問題が暴走機関車と化して,誰にもどうにも出来ない状態になっている時点で,内部調査委員がどうしようもなくなっているであろうことは想像がつくものの,邪推とはいえ「何かを守ろう」としているかのような,「この展開で誰を血祭りに上げることで収束させようとしているのではないか」というような不気味さを感じたのは事実です(これは本当にただの邪推ですが……).

そして,プロトコルの提示により「STAP 細胞」の実在性が根本から揺らぎ(この件に関しては専門外なので,識者からの受け売りです),無関係の論文からの画像の使い回しが発覚するに至り(と同時の,共著者の一人であり,この問題に関してただ一人,この疑惑に関してコメントを発し,一人で戦っていた方からの「確信がなくなった」という発言が為されるに至り),問題は著者の個人的な「杜撰さ」を越えた,共同研究という研究手法の抱える闇にまで展開してしまいました.

学位論文のコピペに関しては,著者の人格の「杜撰さ」で済む問題なのか,「悪意を持った捏造」が起こったのか,というラインまでも揺らがしているといえるでしょう.これは,学位論文を書いたことがある人間として,ちょっと信じられないレベルの,「杜撰さ」を越えたところにある問題です(この点だけは断言できます).

昨日の理研の会見の詳報を読みましたが,問題の広がりが大きくなり過ぎて,理研という頭脳集団でも,どうしようもなくなっている様がよく見て取れました.そして,これは,理研という組織だけではなく,サイエンスコミュニティー全体が批判的に対応していかなければならない,社会に結論を提示しなければならない,大きな問題になった,と感じました.

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現時点での,諸問題に関する僕の見解は,次の通りです.

論文そのもの:致命的な画像の使い回しが発覚し,共著者が論文そのものに対して疑義を抱いている時点で,真相とは無関係に即刻取り下げるのが普通でしょう.たとえ,「STAP 細胞」が実在し,このことで認知された結果,他の機関が手法の開発に成功し,全ての利権を攫われたとしても,ここで取り下げることがサイエンスコミュニティーの健全性を担保する唯一の方法であると考えるからです.

STAP 細胞の実在性:専門外の人間なのでわかりません.ただ,現時点でオープンに提示されている証拠だけから専門家が判断した通りなのだとは思います.

研究者個人に関して:最早,「杜撰さ」の生んだ「ミス」という言い訳が成立する段階ではないと思います.(本来の意味の)確信犯なのでしょう(「犯」という文字を使うのはちょっと違うかも知れませんが).個々の研究の正当性とか,その真相とかとは無関係に,ここまで「杜撰な」人と,僕は関わりを持ちたいとは思えません.
ただ,個人を引っ張り出してコメントさせろ,なんていう発言はどうかと思います.完全に捏造が判明したりとか,最終結論が出た段階で,なんらかのコメントが聞きたいという段階であれば,まぁ,分からない感想ではないとも思いますが,基本的には,「本人に何を言わせたいんだ?」と思います.この問題の本質は,本人の「悪意の有無」なんて些末な問題ではないと思うからです.適切にこの問題を評価して,それに則って,適切に関係者を処分して,その過程をオープンにして,みんなが納得すれば,それでいいのではないかと思います.そもそも,研究成果(とそれが引き起こした諸々)に関して注視されているのであって,この人自体に注視している人なんてサイエンティストにはいないでしょ?(僕と同様に,こういう人とは研究なんて出来ない,という思いを抱く人は居ると思うし,最終的にどんな結論になっても,この人の未来は,明るくはないと思うけれど).

共同研究者,共同研究ということ:共同研究というのは,少しずつ専門性の異なる人間が互いの持ち寄った成果を統合するものです.この辺りが,関わったことがない人には通じにくいのかも知れませんが,必ずしも全員が全ての成果に関して十分に精査したり,十分に理解しているとは限らず,その代わりに,いわば「信用取り引き」をしているという状態です(そもそも,共同研究者の「成果」を精査できる程十分な知見が共同研究者にないことも普通です).例えば,僕が微化石の分析を任された研究に関して,僕が都合良く「捏造」したとしても,僕の共同研究者は僕の出した結果を精査する術を持たないでしょう(そもそも,普通の研究者は,そんな発想すらしない [と相互に信じた上で共同研究を行う] ので,例として適切とも思えませんが).しかし,こういう事例を目の当たりにしてしまうと,かつて先輩にいわれた「自分の研究成果の一番の批判者は自分」という言葉を,「信用」を覆してでも,共同研究者の成果に向けるという努力をもっと向けるべきでも,当然,あるのでしょう.特に,論文という形にまとめる段階で,共著になった時点で,論文の全ての文字,画像に関して,責任を負える程度の精査をしていかねばならないのかも知れません(それは,色んな意味で困難だとは思いますが…….それが出来るなら,そもそも「共同研究」じゃなくて単著が出来る,ということでもあるので).

画像のこと:意図的に行われた画像の改竄,使い回しなんていうのは,基本的に論外です.ただし,無数の情報をひとつの論文にまとめる過程で,混乱して,思わぬミスをすることは,人間である以上,どうしようもないことです(僕だって,ミスってエラータムを出したことがあります).これらを全て「杜撰さ」が招いたミスと判断するか,無自覚であっても裏に多少なりとも「悪意」の潜んだ確信犯と判断するかは,非常に難しいと思います.というか,そんなのは本人が(これまでの報道や世間の流れに左右されない状態で)はっきり言明するまで,だれにも分かりようがありません(し,ことがここまで至った以上,本人のコメントが「本心」である保証はもうないでしょう).しかし,全てがミスだったとしても,ここまで「杜撰な」人というのは,少なくとも,誰も信用してくれないんじゃないかな,とは思います(あくまで,信用というのは感情ですから).

コピペの問題:この件に関しては,「コピーアンドペースト」を,普通の報道番組が「コピペ」という単語で表現しているということが,個人的には可笑しかったりもしたのですが,やや深刻な部分も含んでいると思います.
よく似た手法で研究された論文の materials and methods が,ほとんどコピペになることは,ままあることだと思います.また,非英語圏に育った我々が,英語で論文を書く際に,上手い表現を他人の論文から引っ張ってきて真似をする(コピペとか盗用という過度なレベルではなく)ということも,まぁ,よくあることです(それがいいか悪いかは置いておいて).そもそも,似たようなことを書こうとしている文章が似るのは当然のことです.だから,コピペとか盗用とかいう問題は,たとえ科学倫理に通じた優秀な科学者であっても判断が難しいものなのです.
実際,文章を書くときに「コピペと疑われないように書こう」なんて,普通は意識していませんし,やましいことがなければ,そもそもそんな疑義が降り掛かることなんて気にすらしません.
また,この問題においては,問題になっている論文の手法部分だけではなく,別な博士論文のことが引っ張り出されてきた結果,非常に大きくクローズアップされてきた,という側面もあり,なんとも問題を複雑にしています.
まぁ,引用なしの長文コピペは,良くないことなのでしないことですね,としか言えません.引用明記すりゃいいのか,とか,色々,問題はありますが.

再現性の確認:このことに関して,騒ぎはじめたのはどう考えても「早すぎた」と,今でも思っています.「STAP 細胞」が実在するかどうかということに関して,僕には,まったくもって分かりませんが,論文が出てから 1 ヶ月も経たないうちに,(多くは研究者でも何でもない一般人が)騒ぎ出すようなことではなかったと思います.結果として,「STAP 細胞」は,存在そのものが疑問視されるものになり(僕にはそうらしいという判断しか出来ませんが),恐らくは,出来もしない(可能性が高い)ものを作成しようとして多くの研究リソースが無駄になることを食い止められたのかも知れませんが,やはり,ネットを介して,たった 1 ヶ月で「再現性が取れない」という話が一人歩きしていった短絡的な展開は,やや恐ろしいものでした.

科学報道:これまで速報性以外の何かを期待したこともありませんし,今後も何も期待していません.そもそも,専門外の人間が,論文を読まずに正確な認識を得るようにするなんて不可能ですし,そんなことをする意味があるのか,と思います(専門外だったら,論文読んだって分からないのが,普通の世界なんだし).

リケジョという表現,そういう報道,それを装うアピール:バカみたい.昔から,キュリー夫人の科学的成果を無視して「女性で初めてノーベル賞をとったから偉人」みたいな扱いをする伝記に疑問を持っていた自分としては,そもそも,学術的な問題を性差で区別すること自体がナンセンスだと思うし,バカみたいと思います.このことに絡んで触れておくべきことに,公募における女性研究者の採用に関する文言(「同程度の学識・研究である場合,女性を優先して採用します」という文章を見かけることは多い)とか,軋轢を生んでいる事例が存在している,という事実を挙げておくべきだと思います.
自分からの女性アピールなんかに関しては,個人の勝手だと思いますし,それによって自分を宣伝するという方法は,あってしかるべきだとは思います.ただ,僕は下品だな,と感じるということです.それに群がるマスコミ,そういう報道を眺めて騒ぐ一般の人の様は,醜悪とすら思います.

IT 社会における科学:この問題で,考えさせることがいちばん多かったのが,この部分.明確な見解は示せないくらい,大きな問題で,功も罪も孕んでいると思います.ちょっと大きすぎて,本当に分からない.少なくとも,それ以前とは変わっていくのだろうという予想だけはつきます(既にだいぶ変わっているわけだし).

一般社会と科学:単純な疑問として「なんで科学をやっていないのに科学に興味を持てるのか?」という感覚が,昔からあります.「科学をやる」方法は,色々あると思います.研究をするといういちばん単純な方法から,論文を読んで知識をつけるという高度な方法から,普及書,普及講演に参加するなどのライトな方法までいろいろ.まぁ,この部分に関しては,アウトリーチとか,この問題から,だいぶかけ離れているところで,色々,思うところがあるので,別な機会に,こんなチンケなブログとかではなく,もっと公的な方法で書くこともあるかもしれないので,深くは触れません.

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雑多ながらメモとして.

(ところで,タイトルの元ネタとか暗喩は誰か分かってもらえるかな,とか気にしてみたり)

2014年3月11日火曜日

3 年

敢えて何も言わないのも,また,なんだか無駄に意識しているようで格好つかないんじゃないかと思ったり,そういう,変な意識の仕方をする時点で,ダサいんじゃないかと思ったり,そもそも,ダサかろうが格好がつこうが,そのこと自体にはなんにも意味がないということに気付いたり.

どうやっても,震災を意識せずにはいられないのは,結局,あの日,あのとき,あの場所に居たという事実が,自分の中で大きい出来事だからだと思う.

あの震災から 3 年間経って,その間に,自分にも色々な出来事があった.学位を取ったり,就職したりという大きな出来事から,小さな出来事まで色々.そういう出来事の全てが,結局,あの震災を末端で経験したことに多かれ少なかれ影響を受けていて,その結果に,今の自分が居るんだと思うと,不思議な気分になる.多分,あの経験がなければ,僕は,ここに居ない.

地球科学者の端くれとして,あの日を経験し,その後,立場上,震災に関係する仕事も多くなった.たぶん,そういう中で,単純な学究ではなくて,自分の知識・技術を社会に還元したいという欲求が生まれ,今の自分に至るんだろうと思う.

よりによって,あの震災から 3 年目の今日,ちょうど津波堆積物の研究に関連した作業をしながら,そんなことを考えた.