2014年7月31日木曜日

影響は与えることもあるだろう

某女子高生が女子高生を殺害した事件で,わりと好きなアニメが一話飛んだりした今日この頃ですが,皆様,いかがお過ごしでしょうか?

まぁ,そういう事件があった手前,放送する側がどういう対応を採ったところで,どこからかは叩かれるので,世の中の人間の数から考えたら圧倒的に数の少ないアニメファンに我慢を強いようという展開は,予想がつきましたし,それはそういうものだと思います.放送した場合を考えると,それが,ワイドショーに食いつかれたりなんかしたら目も当てられないような状況になるのは,火を見るよりも明らかですし.

こういったときに,なんでこんなことで自粛なんかしなければならないんだ,という感情がファンに生じることは,まぁ,妥当だと思います.僕自身,そういう感情がないか,というと,嘘になりますし,ツイッターやら 2ch やらにも,当然,そういう主旨のコメントが散見されており,そう思う人が少なくないことを感じさせます.

そういうコメントの極左的なものの中に「(アニメなどの)メディアに影響されて○○する人間なんていねーよ!(○○には殺人でもなんでも入れてみて下さい)」という意見がちらほらと見つかりますが,僕個人は,それが妥当な意見かどうかやや疑問に感じます.

アニメでも映画でもマンガでも小説でもバラエティーでもニュースでもそうですが,先の発言の中の○○がポジティブなものであれば,影響を受ける人は多いでしょう.元がサブカルの話題なので,アニメで例を出すなら,「けいおん!」をみて楽器をはじめたという人や,「ちはやふる」をみて(読んで)百人一首カルタをはじめた人などは少なくないのではないかと思います.当然,○○に入るものがネガティブなものになれば,影響を受けてそれをはじめる人は少なくなります.しかし,アニメやマンガや映画の格好いいキャラクターに影響された若年層の喫煙や,青春ものの作品に影響された飲酒のような軽度の法律違反は,普通にあることでしょう.もう少し,ネガティブなものだと,いわゆるヤンキーものと総称されるものに影響を受けて軽犯罪者(予備軍)になった人だって,世の中にはそれなりの数で存在しているわけです.

確かに,なにかの影響を受けたとしても,「殺人とかレイプなどの重犯罪に走る人間なんて居ないんじゃないの?」という考え方は分かります.しかし,自殺報道に対して世界的に厳しい勧告がなされていることを例に出すまでもなく,たとえ,極端にネガティブな現象であっても,メディアが大きな影響を及ぼす例はないわけではなりません(この場合,影響を受けた人に元々自殺願望があることが前提なので,報道などがどの程度,どういう形で影響を与えたのかの切り分けは困難ですし,他者に危害を加えることと自分の命を捨てることとのハードルの高低の問題はありますが,極端にネガティブな事象ですら影響があった [可能性が高い] ことが,根本的な問題だということです).

もちろん,何かのメディアが殺人,レイプ,未成年略取,誘拐事件……などの重犯罪に影響を与えたなんて直接的に分かったことなんて,僕の知る限りないですし(というか,そんなのは犯罪者を出生児からモニタリングしてないと分からないですし),あやふやな感想を元に表現に無用な厳しい規制を掛けるなんていうのは,基本的に論の外だとは思いますが,何かの表現(それが,アニメでも映画でもマンガでも小説でもバラエティーでもニュースでもなんでも)が,ネガティブな影響を与えうる可能性に関して,供給する側も消費する側も忘れてはいけないと思います.大食い番組とか芸人の身体を張った芸とかが,幼い命を奪った例ですら存在することまで考慮すると,過激な表現の取り扱いに関して,気を使うことには,個人的には,どうしても強く反対できないな,といつも思います.

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追記

http://yaraon.blog109.fc2.com/blog-entry-25816.html

この監督のこの発言に身震いするほど感動した.これが,僕が上の記事でいいたかった理想的な制作者の姿(謝罪は大袈裟だし,いらないけれど).このタイミングでいえるということが,本当に素晴らしい.

こういう発言を見ると,この人の作品をまた見たくなるね.

2014年7月23日水曜日

古生物と萌えの親和性とかアウトリーチとか

世の中では,だいぶ昔から「○○の萌えキャラ化」というものが流行っているけれど,寡聞にして古生物系統のネタが萌え産業にて成功したという話は聞きません(そもそも,こういう「萌え」商売で成功した例があるのか,という話は置いておいて…….あ.艦コレとかそうか).

一部界隈で盛り上がっている某瑞浪博物館イチオシの萌えキャラであるところの某瑞浪ミオちゃんも,盛り上がっているように見せかけて,古生物に興味がある層の中で萌えキャラに嫌悪感を抱かない人々がきゃっきゃと騒いでいるだけに過ぎません.端から見ていて,正直,リアルな意味で痛々しいです.ただ,このキャラについては,このあと話をしたいことの逆をついて「古生物に興味がある少女(JC)」をモチーフにしている分,いくらかマシな展開も出来るかもしれないとも思います.

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結論から言うと,古生物と萌えには親和性はありません.

そもそも,古生物の本質は形態学であって,いわばその「形」に萌える人間によって作り上げられた記載の体系です.一方,いわゆる「萌え」とは,東浩紀氏からはじまるサブカル論の議論を持ち出すまでもなく,「萌え要素」というオタク好みのフォルムに基づく形態記載の体系であると総括できます.ある形態記載の体系を別な形態記載の体系で置き換えることに,意味がないことはいうまでもないでしょう.

船の形態を萌え要素に置き換えた「艦コレ」が,成功した商売でいられるのは,「艦コレ」が「淡いエロを含んだ戦闘ゲーム」という商材だからであって,別に艦船形態のアウトリーチではないからです.しかし,古生物の萌え化は,アウトリーチとして成功しなければ,そもそもする必要がないのです(つまり,萌え化とはちょっと違うけれど,商材として優れていた「恐竜キング」がアウトリーチに果たした効果がどれほどあったのか?ということ).

萌え化ではありませんが「ジュラシックパーク」を見たことが古生物の道を歩むことに強く影響を与えたという狭義の古生物関係者(=研究者界隈)には会ったことがあります.これは,一見,映画という学問から離れたエンターテインメントが大きなアウトリーチ効果を示したように見えなくもありませんが,日本だけで 83 億円(Wikipedia より)の興行収入を叩き出した大ヒット映画に比して,俺集計で 4, 5 人という数字は,本当に「効果」といえるでしょうか?

※なお,余談ですが,この中に現在も狭義の古生物界隈に留まっている人はいません.

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古生物のアウトリーチには,古生物の形の面白さを用いるべきだと思います.古生物の形とは,怪獣や奇怪な生き物が生き生きと蠢いている絵ではなく,実物であり,レプリカであり,写真であり,スケッチのことです.例えば,ティラノサウルスとトリケラトプスが生き生きと戦っている絵に興味をもつ人間よりも,例えば,ヘリコプリオンの化石の形もつ魅力に取り付かれる人間を増やすことが,古生物のアウトリーチではないかと,そう思うわけです.

2014年7月5日土曜日

書きかけの記事

この日記は,思いついた書きたいことを一気に書いてしまうときと,なんとなく書きたい内容を捏ねくりつつ,上手くまとめきらずに書きかけて,何回か行ったり来たりしたあとになんとなくの落としどころを見付けて公開しているときがあります.面白いのは,長い記事はなんとなく一気に書き切ることが多く,短い記事ほどなんだか弄くり回してようやく書き上がることが多いです(一概には言えませんが).逆に言うと,一気に書き上げると言いたいことがとっ散らかって,書きたいものを書きたいだけ書いているから無駄に長い記事になるし,熟慮した結果,端的にまとまるということかも知れませんが,長い記事でも文章的にまとまっていることもあるので,おそらく思いついたネタに対しての結論までの心的距離の問題なんだと思います.

そんなわけで,ここに書こうかなと思いついて,書きかけたけれど,なんとなく落としどころがみつからないまま放置している文章というのがそれなりの数存在しているんですが,そういう記事の中に,いま,書きかけの文章を読んでいても,自分でも何が書きたかったのかがよくわからないものが多々あります.

書きかけの文章でも残っていれば,それなりに推測もつくのですが,ものによっては「思いついたときはドヤ顔で打ち込んでいたんだろうな……(恥)」という感じの妙に凝ったタイトルと,プロットにも満たない思いつきの断片などしか残っていないものなどもあって,大変困ります.特に「ドヤ顔タイトル()」がついているときというのは,思いついたときに「上手いこと言おう」と思って書きはじめていることが想定されるので,大変,痛々しいです.

しかし,個人的には思索の断片を余さず記録しておきたいとは思っているので,そういうものも出来る限り復活させたいとは思うし,まとまっていないぼんやりしたものでも書き残せる場を(自分の中では)用意したりしているので,なんとかしたいなとは思います.

曜日感覚

学生(研究室)〜ポスドク時代は,週という単位がなにかの区切りになるということがないこともあって,大分,曜日感覚というものが失われていました.特に,テレビをもたなくなってからは顕著で,それまであった番組の周期によって得られる曜日感覚(例えば,サザエさんシンドロームのようなもの)も失われたので,全く,曜日というものと無縁の生活を送っていました(とはいえ,ドクター後半くらいからアニメを見るようになって,やや周期は見えるようになっていました).もちろん,週に一日くらいは休む日は作っていましたし(メリハリは大事),ダラダラと研究室に居着くのは,最悪の反面教師を日々眺めていたこともあって,猛烈な恥だという感覚はあったので,ダメ院生の中では比較的,サイクリックに活動していたのではないかという自負はあります.

それでも,曜日という機械的な指標に沿って某かの影響が生活に出るわけではないこともあって,「今日が何曜日か?」と聞かれると携帯電話のカレンダーを見ないとわからない,ということが常態化していました.

就職以降,土日には,職場が(名目上)停止してしまうことから,いくらか曜日感覚が戻ってきた気がしています.例えば,「今日は○曜日だから,この仕事を先に仕上げないといけない」という判断が必要なので,常に頭の隅っこには,今日が何曜日なのか,という意識を残していることが多いです.

……とまぁ,そんな風に,「社会人としての自覚」が自分に根付いてきたな,と自画自賛していたのですが,夏になって出張が頻発するようになってきた結果,そんなものはあえなく崩壊しています.今日も,上司に「明日,これこれの議論をしたいんですが,お時間ありますか?」とか言ってしまい,「なに?俺に土曜出勤しろってこと?w」と突っ込まれるというポカをやらかした次第です.

でも,僕以外にも,この手の会話は(職場内だけではなく)良く見かけるので,そもそも,曜日という機械的に割り振られたものに人間の感覚を意識せずに合わせるなんて無理なんじゃないか,と最近は諦観に満ちているところです.