2015年4月6日月曜日

意識の変節

昔は三島由紀夫の小説が嫌いだった.

そのうち,高校生くらいになって,当時,付き合っていた彼女が三島好きだった影響で,いくつか読み散らして,三島の戯曲は「華やかで面白い」と思うようになったけれど,小説は一部を除いて,やっぱりあんまりピンとこなかった.「翼」とかは,美しいと思ったりもしたけれど,美しいだけなら川端でも読んでいれば良かったし,個人的な趣味で言えば谷崎が好きだった(鏡花はもっと好きだった/笑).

その後,大学で自堕落な生活を送っていた頃,一緒にソフトロックをやるバンドを組んでいて,よく(向こうだけ)酒を飲みながら音楽から哲学から学問から政治からグダグダと夜通し議論するような仲だった先輩が「春の雪」だけがすごい好きだというので,その影響で読んでみて,「ちょっと良いな」と思うこともあったけれど,どうにも「社会とか理想とかと自分の業をすり合わせるためだけに生まれたような文学」は好きになれなくて,社会に背を向けて自分だけに向き合う文学に耽溺して,無頼派から町田町蔵に至る系譜をなぞってばかりいた(太宰,安吾,椎名,町蔵あたりは未だにフェイバリット.最近は,とある本屋さんの勧めで西村賢太を読んでみようかなとか思っている).

そういえば,「春の雪」の映画は,自分の中で,心的・文学的な問題よりも目の前にある自然現象の問題を解明することの方が重要になっていた頃に,渡仏する飛行機の中で見たけれど,あの映画の竹内結子は綺麗だったな.邦画特有の画面の暗さはやはり好かなかったけれど,映画としてはよくできていたと思う.

最近,本当に年をとったと感じる.体力が衰えてきたとか,人並みに社会人になったとか,人並みに結婚したとか,そういうことも関係しているのかもしれないけれど,鮮烈な青春で,自分史のハイライトだと思い込んでいた,物心ついてから高校までの時代よりも,大学から今に至る時代の方が長くなってしまったことに気付いたことが大きい.この時期を,自分は取り戻すことのできない青春の追憶の中で「晩年」を生きていたつもりだったけれど,今思い返せば,この時代もこの時期特有の痛覚に彩られているし,結局,今の自分に至る全ては,この時代の全てで培われていて,好き勝手に生きて放蕩してきたことが,自分を社会の中に立たせていたのだったと,いまなら記せる.そうして,人間は(少なくとも僕は),自分の業だけではなくて,社会とも向き合わないことはできないとも気付いた.社会とか理想とかと自分の業は別なものではなくて,一個の人間にとっては,切り離せない内面的な問題かもしれないと,たぶん,この歳になったから気付いたような気がする.

たぶん,いまなら三島を読めるんじゃないかと思った.

手始めに,「豊饒の海」の続きでも読んでみようかと,自分の変節に想いを馳せながら,「今」を起点とした時に何年後かに,何年か,何十年か後に,また訪れるであろう,ひとつの自分史の区切りまでを,自分はどうするのだろうかとか思う.そうして,タバコの紫煙を吐き出して,モニターに残されたこの文章を「なんだこれは…….どうしてこんな文章になった?」と,読み返して苦笑しながら,とりあえず,更新ボタンをポチるのだった.