2011年12月31日土曜日

2011 年

今年もあと 20 時間を切りましたね.そんなわけで,毎年恒例というか,まぁ,年の区切りに,ということで,今年をざっと振り返ってみようかと思います.

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1 月.

2010 年度で学位を取らないことが決定したので,最後のデータだしをがんばっていたような記憶があります.とても便利な時系列データ蓄積所である Twitter を振り返ってみると,学位取得遅延が決定した直後のネガティブさに比べると精神が安定している様子が伺えます.あと,どんだけ「まどマギ」にハマっているのか,とw

……そして,懐かしいな,この位置の机…….

あと,こんなこともしてた.平和な風景だなー.

あと,新燃岳の噴火もこのころだったかー.

2 月.

本来の予定では, 3 月末に原稿提出→ 6 月学位取得という流れであったため,この時期は原稿に集中していた気がします.そして,英語原稿書きになぜかよくハマったのでレゲエばっかり聞いていた気がします.

この月に New Zealand で地震がありました.クライストチャーチは中学のときにホームステイで New Zealand に行ったときに飛行場だけ経由したことがある都市だったので,ちょっとショックを受けた覚えがあります.

この頃は平和だったなぁ……(しみじみ).

3 月.

前半は D 論の原稿に集中していました.うん.ちょうど,「今週中に結果まで書き上げて師匠に添削を頼もう」とか思って,化石の検討結果(数値データ)を色々といじっていた頃だったような気がします.

んで,コレwww


このつぶやきのあと,その日の夕方に予定されていた後輩の追い出しコンパのお金を下ろしに行こうとして,途中,トイレに寄ったところであの震災に巻き込まれました.当時の詳しい状況は,絶賛更新遅延中の被災記録でご覧ください.

この震災のあと,3/15 に仙台を脱出して,札幌にて北大に潜伏して D 論の執筆を続けました.

学生の身の上では仕方のない事態だったとはいえ,8 年も在籍していながら学位論文だけを母校に提出しない,という暴挙をおかした学生を暖かく受け入れて下さった北大の先生方には本当に頭が上がりません.割りとマジで.

なお,震災直後の僕の居室はこんな感じでした.

あと,僕の居室の地震真っ最中の動画(後輩撮影).途中で,僕の声(通路断裂云々言っているやつ)が入っていますが,めちゃくちゃ震えているのがリアルですw まぁ,これを見返すと,未だに,ちょっと恐怖が蘇りますがw

4 月.

学校が閉鎖されたため,初旬まで北大に潜伏していましたが, 4/6 に小樽−新潟便で仙台に帰還しました.そして,帰った翌日にこんな事態続き)にwww

ある程度片付けが終わるまではバタバタし続けていた気がしますが,この時期には D 論の修正作業に入っていました.そして,9 月卒業が決定したのもこの時期だったような気がします.

5 月.

震災のお片づけもほぼ終わった時期.いや,本当はこの後も長らく戦いが続いたのだけれど,いちおう.

震災でみんなが書棚の整理をしてくれたおかげで,自分の本棚が充実したりしましたw

あと,この程度にはネガティブだったようですw

6 月.

D 論の最終追い込み時期.月末に予備審があったらしい.

7 月.

こんなことやったりしていました( http://twitter.com/#!/yuri_kreta/status/89334396481585152
http://twitter.com/#!/yuri_kreta/status/89352769621860352 ). これは,真面目にビビったなぁ…….

7/11 に D 論の一次提出だったようです.

あと,本審査前にこんなことやっている余裕はあったらしい.

7/25 に D 論が査読から帰ってきている.

8 月.

8/1 に D 論本審査,8/10 に D 論の最終提出があったらしいです.正直,この時期の記憶は曖昧なので,Twilog を漁りながら,「こんなことあったなぁ……」という印象です.

あと,この月から博物館の勤務がはじまりました.

9 月.

この時期もかなり記憶が曖昧です.なんだかんだ言って,D 論が終わって腑抜けていたのだろうなぁ,と思います.

9/8 に学位論文受理,9/26 に卒業式でした.今年は,震災からの復興を意識するために 9 月卒業の人のためにも式や祝賀会が開催されるということで,参加したりしていました.

10 月.

9 月下旬から 10 月上旬にかけて,博物館のイベントにかり出されていたこと,10 月中旬にフランスへの渡航準備に奔走していたこと,10 月下旬〜 11 月のはじめまでフランスに行っていたことは覚えています.

8 月〜9 月に腑抜けすぎていた心がフランス調査を境に復帰できたのがラッキーでした.ポスドクとしての立場に目覚めたり,震災以来揺れていた自分の将来という漠然とした何かに対して,あるきっかけで吹っ切ることが出来たのもこの時期だったかと…….

11 月.

本気出してたw

この時期は,卒論生,修論生をポスドクという立場で見ることで,やたらと脳が先鋭化していた記憶があります.D 論でやられすぎていて,いつもニコニコしている優しいうすらバカの Kretacea 先輩という仮面を剥いだのもこの時期かと.

12 月.

11 月が他人の面倒を本気で見ていたのに対して,12 月は自分の仕事に本気を出していました.

「Kretacea 先輩はいつも顕微鏡かパソコンに向かっている」という印象を,「Kretacea 先輩は岩石処理魔」という印象にクラスチェンジさせることに成功(たぶん).自分でも,見失いがちだった自分の研究の本道(地道に調査,地道に岩石処理,地道に顕微鏡覗き)を思い出せました.

後は論文を書くだけだ!

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……と,振り返ってみたけれど,本当に濃い一年でした.多分,自分の人生で一番濃い一年だったのではないかと思います.初筆頭論文の出版,震災,学位,ポスドク生活……思い返すと色々ありますが,とりあえず,人生的な意味ではようやくスタートラインみたいなものなので来年もがんばっていこうと思います.おー.

最後に,今年,お世話になった皆様,ありがとうございました.そして,良いお年を!

2011年12月29日木曜日

たったいま思い出したので……

フランス旅行記で書こうと思っていたのに書き忘れていた一発ネタを,たったいま思い出したので,忘れないうちに書いておく.






サラダ・メランジュ!








……いや,これだけです.

けいおん!劇場版の感想・その2

映画「けいおん!」の感想,その2です.記事をわける必要があるほど文章量があるわけではないのですが…….

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「けいおん!」の映画がいかに良かったか,ということは前回の記事でさんざん書いたのですが,これをひとことで表すと

「俺たちの見たかった『けいおん!』は,1 期でも 2 期でもなく,これだったんだよ!」

です.

「いかにもアニメの中にしか存在しない女の子」が "リアルに見えるように仕込まれた(※1)" アニメ特有の世界でゆるゆるとバンド活動をする,という世界観が,「けいおん!」という作品に求められるすべてだったのです.

そういう意味では,TV アニメ本編はあまりにも「描かれるべき姿」が省略されすぎていました.

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この映画では,「天使にふれたよ!」を制作するという裏テーマを,ハイエタスのないフィルムの上で,唯の心情変化を中心に丁寧に描きだしました.特に,その空隙のない時間の中に「ロンドン旅行」というイベントを挟んでも,その道筋がぶれることなくいつもの唯として描ききったのは演出として本当に素晴らしかったと思います.この辺りは前回の記事で書いた通りです.

こういう,「日常」の感覚を「ロンドン旅行」というあまりにもイベンティックな設定の中でも失わなかった監督の演出こそが,この映画の素晴らしさそのものだと思います.このような演出が端的に現れていたのが,監督自身も雑誌のインタビューなどで取り上げている「気付かずに Abby Road を横断する 5 人」のシーンだったといえます.

また,「天使にふれたよ!」の制作において,アニメとして,ほぼはじめて楽曲を作っていく HTT の姿が描かれていました(※2).これもまた,まさに「僕らのみたかった『けいおん!』そのもの」だったといえます.

(ついでに,この楽曲制作シーンで映画冒頭の「光」が後輩のための曲だったという伏線を回収しているところもよく作っているなぁ,と思いました)

さらに,卒業ライヴが描かれたことが本当に良かったです.これについては,アニメ本編でマラソン大会などの間延びした回を入れてまで貴重な尺を潰したり,OP のカットに教室ライヴを使ったりしていたのは,映画で感動的に卒業ライヴをやるためだったのではないか,と邪推してしまうくらい完璧なアニメ本編の補完だったと思います.

特に 2 期では HTT メンバーとクラスメイトの交流が描かれたことや,さわちゃんのはじめての担任クラスということで,モブにファンが付くほどモブがいきいきと描かれていたにも拘らず,卒業が近付くにつれてストーリーが主要メンバーだけに収束していってしまい,消化不良を起こしていたと感じるくらいでしたが,映画で卒業ライブが描かれたことによって,そんなフラストレーションは完全に霧消しました.

卒業ライヴを計画した HTT をさわちゃんが先生をしながら守ろうとする姿,盛り上がるクラスメイト,掘込先生 V.S. さわちゃん,後輩も先生も巻き込んでしまう……「リアルじゃないリアルな青春」のすべてがベタベタに,でも,感動的に描かれていたといえます.けいおんさいこー!

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本編のハイライトはロンドンでのライヴにおける「ごはんはおかず」の

「もういっかい!」からの唯の無理矢理なリフの切り返し→一瞬遅れながらも付いてくるみんなの演奏→唯のアドリブ→「スカイハイ!」

の流れと,

卒業ライヴでの "U&I" での,

唯とにゃんあずのギターユニゾン→やりたい放題→掘込先生もノリノリ

の流れでしょう.

この二つのシーンは本当に素晴らしかったです.

……この 2 曲に比べると,アニメ本編と同じカットが含まれていたラストの「天使にふれたよ!」の演出は「にゃんあずが泣くシーンをみせない」という意図は素敵でしたが,本編以上のものではなかったと思います.まぁ,このシーンは,アニメ本編のハイエタスを補完しきったことを示す終端記号としての意味以上の意味がないのでこれでいいのだと思います.

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この映画中で使われた曲は,演奏シーンがないもの,HTT 以外の曲までを含めると 8 曲ほどありました(もちろん,曲によっては一瞬だけの登場もあり.Love Crisis の曲とか).これ,唯のアドリブとかにゃんあずのギターユニゾンとかが入っているバージョンで CD 化してくれないかなー,と期待しております.

あと,映画で流れなかったブラックフリルの曲も聞いてみたいw

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……面白かったり,良かったりした映画の感想を語ろうとすると,どうしても雑多になってしまいます.つまらなかったり,悪かったりすると,批判的に論理的に語れるんですけれどねw まぁ,批判は素人でもできるを地で行っているのもご愛嬌ということで…….

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※1:リアルであることが重要なのではなくて,観客にリアルであるように錯覚させること.例えば,SF 世界なんかで,「SF 的常識[通常の世界での非常識]」を常識っぽく見せかけるような演出法.

※2:1 期の「冬の日」,2 期の "U&I" など,断片的に描かれていたシーンはあったけれど,曲の発想から試作,編曲課程,詩作課程をしっかり描いたのはほぼはじめて.個人的には,唯と澪で 3 度をどっちが弾くかとか,澪が律のバスドラの拍に文句を付けるとかの喧嘩が起こったりするシーンがあったらベストだったのだけれど,ゆるゆる女子高生バンドというコンセプトには不要だろう.

2011年12月12日月曜日

けいおん!劇場版の感想・その1

書くのが遅くなりましたが,映画「けいおん!」を初日にみてきました.

もちろん,一人で!

そして,その週のうちに二回目もみてきた.今度は後輩とだけど.

……そんなわけで,半券が三枚(俺 2 枚,後輩 1 枚)がたまったので生フィルムと交換してきた.ちょっといいシーンでしょ?

鳥獣戯画のシーン.

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なお,敢えて初日に行ったのは,基本的にアニメ映画の公開初日の客層を眺めるのが趣味だからなのであって,特に「けいおん!」が好きだからとかではありません.断じて!

以前,同じ京都アニメーション制作のハルヒの映画を見に行ったときに,いかにもオタクといった風体の人が大部分を占めていたこと,(その日の最終上映の 1 回前だったにも関わらず)ものすごい数の客がいたことなどが印象に残っていました.そんなわけで,同じ京都アニメーション制作の "The 養豚場" である「けいおん!」の映画の初日の客層にはかなり期待していたのですが,実際,映画館に足を運んでみると,劇場がガラガラであるだけではなく,客層も萌え豚と言えそうな人(というかごく普通の成人男性)が僕くらいしかいませんでした.実際のお客さん構成としては,大部分が小学生〜中学生くらいの数人組で占められており,その中でも特に女の子の集団が多かった印象です.それに加えて,(少なくとも見た目は)ごく普通のカップルが数組と,小学生くらいの子供を連れた家族連れ(!)が数組という構成でした.もちろん,札幌と仙台という差(都市の規模,オタクの数・層など)があるとはいえ,このお客さん構成はちょっと予想外でした(ちょっと「『けいおん!』は女子供にも人気!」というデマを信じかけたくらいです).

※ただし,2 回目に行ったときは,メンズデイだったこともあり,基本的に,オタ風味の男が客のほとんどを構成していました.

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本当は,つらつらと感想を書こうかなとか思っていたのですが,時機を逸した感があるのと,普通に "いい映画" だったので,なにかを語るのは野暮かと思い,特に印象に残ったことなどをちょこちょこ書こうかと思います.

(↑などと書きながら,御託を並べていますが,反省としてこの一文は残しておきます)

(以下,ネタバレ注意)

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基本的に京都アニメーションのことはハルヒの映画の件で全く信用していませんでしたが,今回の「けいおん!」の映画は,宣伝戦略を含めて,非常によくできていたと思います.正直,京都アニメーションという会社を見直しました……(映画が始まるまでは「ベルセルクの予告編がいちばん興奮した」とかブログに書くことになるんじゃないかとか思ってた).

広報,予告編において,執拗なまでに「ロンドン」を強調することによって,「(予告編で若干ネタバレしていたとはいえ)卒業を控えた日常のなかで『天使にふれたよ!』を作っていくというストーリー展開」や「ロンドン旅行は映画の本質じゃないという映画の骨格」を見事に視聴前の観客から隠しており,その隠匿によって,映画本体での TV 放映時以上に明瞭に描かれた "The 日常" (本編では,あくまで "某かのイベントに対比する日常" しか描かれていなかった),そして「入試!」から「卒業!」まで間隙なく描くという,起伏ある物語の対局にある "平板な展開" に,ほどよい興奮と驚きが提供されていました.

そして,映画本編の執拗なまでの平板かつ連綿と続く "The 日常" を主軸とする構成は,ハルヒの映画で不評を生み出した,劇場版クラスの規模のシナリオをコントロールする構成力を持たないという京都アニメーションの制作体勢の欠点をいい方向に働かせており,短いエピソード(TV 放映時の 1 話程度に相当)を癒着させて長時間のシナリオを構成するという,本来の「劇場版スケール」の表現方法としてはやや邪道な手法を正当化していたといえます.このような "The 日常" な展開を際立たせていたのが,アニメ「日常」において,散々に揶揄されていた簡素なキャラクターやシュールなギャグ展開に不相応な背景描写,人物行動描写の数々の "リアルさ" だったあたりが,京都アニメーションという会社のトライアンドエラーが正常に機能していることを感じさせてくれます(単に偶然うまくハマっただけかもしれませんが……).このように "The 日常" を引き立たせていた "リアル" な描写は,映画の中に数限りなく散りばめられていました.具体例を挙げるのも億劫ですが,個人的にとても印象に残ったシーンとして「あずにゃんに『なにか』をしたいことを憂に相談する唯がミカンを弄ぶシーン」と「寿司屋でキーボードのなかったムギちゃんが必死のボディーランゲージでキーボードを用意してもらうシーン(後ろからボディーランゲージを眺めていて左記の内容が理解できるレベルまで動きを表現している)」と「唯のノートに書かれた『天使にふれたよ』の歌詞を覗きみてしまってもじもじしている憂ちゃん」の 3 つを挙げておきます.

さらに,この映画の高評価ポイントとして紛れのない「けいおん!」の映画であった,ということが挙げられます.

当初,予告編を眺めていた頃に抱いていた「ロンドンというあまりにもエピソーディックなイベントを映画にしてしまうと,むしろ,『けいおん!』の映画としてコケるんじゃないか?」という杞憂を鑑賞開始から数分ですべて吹き飛ばしてくれました.「ダラダラとした空想的な日常」を描く「けいおん!」という作品には,たとえ,それが映画であっても波瀾万丈な展開などは求められていなくて,「ダラダラとした空想的な日常」と「映画的なちょっとしたサプライズ」程度のエッセンスが求められているということを,制作側がよく見失わなかったな,と思います.ハリウッドアクションを見に行った客が,こてこてのハリウッドアクションに不満を漏らすことがないように,「けいおん!」の映画を見に来た客が「いつもの『けいおん!』のダラダラとした空想的日常」に不満を漏らすわけがないのです.

(以下,個別の感想が続く)

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……こんなに語るつもりはなかったんだけれど,気が付いたら,気持ち悪い言葉をつらつらと並べていた……orz

ちょっと長くなったので,映画の印象に残ったところとか,楽曲のこととか,そういうのは次回の更新にまわします.

2011年12月4日日曜日

そろそろ

駄文書きのリハビリをかねて,この日記だけでも週記くらいまで更新頻度を上げたいと思う.

さしあたり,休止期間中に消化したコンテンツの記録を順次アップする予定(は未定).

2011年11月21日月曜日

ちょっと

南仏プロヴァンスに行ってきた(といっても,帰ってきてから二週間以上経過しているけれど……).

行った目的は,当然,観光ではなくて地質調査.今回で,海外調査は三回目,フランスは二回目です.なんだかんだで,この研究室ではいちばんおいしい思いをしているのではないかと思います.

これまでの海外調査の際には「教授(当時),准教授(当時)+僕(B4)」とか,「師匠(当時はポスドク)+僕(M1)」とか,基本的に自分は知識のない下っ端という立ち位置だったけれど,今回は,師匠(准教授)に次ぐ立場のポスドクとしての同行なので(残り二人は後輩),なんか時代の流れを感じます.

今回の調査は,僕のメイン研究テーマではないので,そういう意味では,ちょっとお気楽だったり,逆に,半分くらい指導者をやっていなきゃいけなかったので,責任を負わないといけない部分があったりと,これまでの調査とは感覚が違っていました.それはそれで楽しかったのだけれど.

また,前回の調査のときには出発前に走り読みした付け焼き刃な知識しか持っていなかったのに対して,今回は,五年分の知識の蓄積があったおかげで,同じ地層を眺めていても「みられるもの」が全く違っていたのが印象的でした.そういう意味では成長しているのだな……,と自己認識できた旅でもありました.

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そんなわけで,向こうで撮った写真を何枚か…….

調査前半戦に泊まった高級ホテル.南仏の伝統を感じさせるステキなホテル……らしいです.併設されているレストランはなんとミシュランの星付き!向こうでお世話になった方をディナーに招待したときに,ここのレストランを利用したけれど,めちゃくちゃ美味しかった.

某スーパーマーケットでみつけた Kaki.フランス語でも Kaki なんだね.

下部白亜系と上部白亜系の境界露頭.黒い地層は泥灰岩で,白い地層は石灰岩.境界付近で劇的に海洋環境が変わったということが誰にでも "見て" わかる素敵露頭です.

Digne les Bains という Haute Provence の中心の街の外れにある「アンモナイト壁」.前回の調査のときにも見に来たのだけれど,何度みても圧巻!ジュラ紀の地層で,この写真の「壁」は,ほぼ直立した地層を下から眺めている状況です.

Digne les Bains の町並み.まさにヨーロッパな風情.雨にぬれているのも雰囲気を出しています.

Eocene の reef limestone.僕らの調査対象はこの地域がまだ(比較的)深い海だった頃の地層だけれど,これはかなり浅くなった頃の地層.Digne les Bains の博物館が建っている山は,この地層からできているのです.

調査中にみつけたサソリたん.かっこかわいい.

「頁岩を割って化石を探す古生物学研究者」という子供の頃のテンプレートな妄想上の「化石博士」の絵を撮ってもらった.真面目な研究者っぽい!

朝もやに煙るプロヴァンス鉄道(CP)の発車シーン!かっこいい!ちょっとした事情でプロヴァンス鉄道に乗る必要性が生じたので時刻表を確認しに行ったら,ちょうど列車が出るところだったので一枚.

夜の Barreme の街角.Barreme は白亜系中部の Barremian (バレミアン階)の名前のもとになった地域(模式階).※ただし現在の GSSP(年代層序単元の基底の模式地)はここにはない.

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……ほとんど遊んでいるような感じですけれど,調査そのものの写真は出せないので,こんな感じだったという空気を感じていただければ幸いです.

2011年10月16日日曜日

ちょっと

南仏プロヴァンスにいってくる.

2011年10月1日土曜日

学位

報告というかなんというか.

とりあえず,学生じゃなくなりました.ノージョブです!


日本古生物学の父・矢部長克大先生の御神影と記念撮影.


2011年8月15日月曜日

近況とか

昨年の秋頃を最後に,3.11 の震災の被災記録(こっちのアップロードも止まってますが……)を除いてまーったくわたくしの状況を記載していなかったので(ほとんど購入記録しかない),近況をちょろちょろと.まぁ,ついったーには随時なにかはつぶやいていたんですけれど…….

……というわけで,最近(ここ一年?)の私.

  • 昨年 10 月末頃に博士論文の提出を三ヶ月ほど遅延させることが決定(未だに後悔は多いが,どーしようもなかったのは事実).
  • それに伴って,12 月末の論文提出締め切りが,4 月中旬頃に変わる.
  • 12 月くらいまで顕微鏡とお友達な生活.12 月末に博士論文の再検討終了.以降,執筆再開.
  • 1 〜 2 月はずっと英語と格闘.大枠の執筆が終わって,細かい議論の検討とかしてた.
  • 3 月 11 日,被災
  • 3 月 15 日の深夜に仙台を出て新潟を経由して北海道に脱出.
  • 4 月上旬まで北大に潜伏して博論執筆など.
  • 4 月 7 日の昼頃に仙台について,地震でぐちゃぐちゃな院生室の片付け→深夜に M7 クラスの余震で元に戻る,というマンガのような流れ.
  • 4 月中はなんだかんだで地震関連のお片付けが多くて大変だった.
  • 当然のごとく 6 月卒業は流れて,9 月卒業を目指すことに.
  • 5 〜 6 月.執筆と修正の連続.
  • 7 月上旬,博士論文一次提出.
  • 8 月 1 日,学位公聴会.
  • 8 月 10 日,博士論文最終提出.
  • ほうけてる←いまここ
……というわけで,いまのところ,なにか大きな問題が発生しなければ 9 月末をもって院生男子終了です.

2011年3月30日水曜日

震災被災記録7:仙台駅前へ

三日目「仙台駅前へ」

(※無計画に書きはじめたので,登場人物が増えてきたのに同一人物を章によって別の呼び方してたり,文体が安定していなかったりがありますが,全編書き終わったら,最終的に全編をリテイクするつもりなので,ご容赦を…….いちおう仙台脱出までの話を書くつもりです)

夕飯〜被災後ティータイムの後,すぐに解散し寝床につきました.

この頃には余震に慣れすぎて,震度 2 程度の余震では夜中に目が覚めるようなことはなくなっていました.しかし,大きめの余震があると夜中に目が覚めてしまう,十分に睡眠が取れたとはいえない,地震から三日目の朝でした.基本的に就寝時には,夜中に何があってもいいように,すぐに外に出られる格好(普段着+フリース+ジャンパー)でいたので,普段,楽に寝ている時の姿勢とはやっぱり違うらしく,寝起きには少し節々が痛んだりしていました.それでも,フィールドなど制限のある生活に慣れているせいか,普段より疲れの蓄積が大きい程度で,まだまだ頑張れる気力は残っていました(いま振り返ってみると,この段階で,かなり疲れやストレスが溜まっていたと思います.行動や当時の会話を思い返してみても,みんなこの日くらいから,確実にストレスと疲れでイラツキはじめていたと思います.僕は,ここに登場するメンバーの中ではかなり冷静なほうに分類されるつもりでしたが,多分,端から見たら相当に冷静さを欠いていたと思います.なので,これ以降のこの記録には,かなり僕の黒い部分というか利己的な部分が現れてくると思います.そういった記述に抵抗がある方は,この先を読むことはお勧めしません).

この日の朝ご飯は,前日同様,残っていた野菜(もともとあったキャベツ+前日に買った茄子)とサバ缶と冷凍庫に残っていた元冷凍米(自然解凍済みw)を使ったオジヤでした(ボソボソの冷凍ご飯の救済+水がないため,野菜を洗えないので煮込む必要がある).朝ご飯を済ませたあと,近くのコンビニにあった公衆電話に向かい,実家に連絡をしました(因みに,この時点で近所にあった公衆電話のうち,故障していなかったのはこの電話だけだったそうです.あと,電話代は掛かりませんでした).

その後,前日に申し合わせていた通り,僕,先輩 K,同期,後輩 K の四名で合流し,八木山動物園前のバス停から臨時運行中のバスに乗り仙台駅へ出ました.バス車内では基本的には,バカ話と K 先輩の買っていた新聞に載っていたニュースの話に終始していました(電気がダメだったので,テレビ,ラジオ,web の全てが使えず,これくらいしか情報源がなかった).ちなみに,この臨時バス便は一時間に一本出ていました.

駅に着いたあと,四人でかたまって,一通り駅の回りの被害を確認しました.駅はすでに立ち入りが禁じられており,内部の様子は伺い知れませんでした(このあと,個人行動をしているときに震災時に駅ビルのショップにいた,という人に会い話を聞きましたが,地震で天井が落ちるなどの大きな被害があったため,地震直後に避難誘導・封鎖されるくらい酷い様子だったようです).基本的な被害は,八木山や長町同様,地割れ,液状化による亀裂,穴が主体でした.広瀬通から繋がる跨線橋のアスファルトの路面に,かなり大規模なヒビが入っているにも関わらず,封鎖されていなかったのには少しひやりとしました.

その他には,前日に後輩 M から得た情報通り,駅前はすでに電気が回復していること,いくつかの店が在庫処分を兼ねて営業していること,(ほとんど売り切れてはいたものの)自動販売機が作動していて水分の入手が可能であること,などを確認しました.また,トイレや電源の開放をしている店舗などがあることを確認しました.また,バス乗り場では山形行きのバスが出ており,もの凄い数の人が並んでいる様子なども確認しました.

この散策の間,基本的にいつでも軽薄な後輩 K と,割と普段から神経質なところがある上にこの震災で疲れとストレスが溜まっていた同期との間が少しずつ険悪になっていきました(後輩 K が空気を無視して軽薄なジョークをいうたびに同期が苛つく,といった雰囲気).そして,そんな険悪な雰囲気が,全体の空気を悪くしていく感じで,ちょっとずつ全員のイライラが溜まっていきました.

駅前のぐるり探索ツアーで大方の駅前の様子がつかめてしまうと,僕は,イライラの根源(同期+後輩 K の組み合わせ)と離れるために各自解散することを提案しました.結果,各自単独行動をとることになりました(同期は帰宅,後輩 K は駅前のダイエーで買い物,K 先輩と僕は各自探索).

僕は,この時くらいから仙台離脱を本格的に考えはじめていたので,そのための情報収集,資金調達(七十七銀行が動いているのはすでに河北新報の朝刊で確認していた)に加え,電気局,水道局などで掲示されているインフラの復旧時期の確認,携帯の充電ができるスポット探しなどをはじめました.

「被災後ティータイムII」に続く.

震災被災記録6:被災後ティータイム

二日目「被災後ティータイム」

(※無計画に書きはじめたので,登場人物が増えてきたのに同一人物を章によって別の呼び方してたり,文体が安定していなかったりがありますが,全編書き終わったら,最終的に全編をリテイクするつもりなので,ご容赦を…….いちおう仙台脱出までの話を書くつもりです)

先輩 K,同期,僕の三人で電池式灯油ストーブのある同期の家に集まり,わけのわからない乾杯をして,酒盛り&雑談をしているうちに(注:僕は下戸なのでジュースです),我々以外の研究室のメンバーが現在どうしているのか,という話題になりました(携帯電話は電池式充電池で時々復活させていましたが,基本的にどこにいても電波が入らなかったので通信,連絡は不能だした).特に後輩 T はバイクを持っていて機動性がいいのと,行動力があるのとで,我々が持っていない情報を持っているんじゃないか,などという話になり,暗くなる前に一回研究室メンバーの様子を見て回ろうということになりました.その話が出た時点で,時間は午後 4 時を過ぎた頃だったので,すぐに研究室メンバーの住所を名簿で確認してから出発しました(電気がないと日没後は真っ暗です.また,この時点では当然,信号も街灯も復活していなかったので,夜に歩くという行為はかなり危険でした).

ついでに今後のことを含めて,みんなで夕飯でも食いながら喋ろう,ということで研究室メンバーに声を掛けることにしました.

……というわけで,以下,各研究室メンバーの震災後のエピソード聞き書きダイジェストのコーナー♪ 平均的な理系院生男子の震災時の反応,大公開だよっ!

〜B くん(D1)の場合〜
地震当日(3/11)の 18:00 から自分の追い出しコンパが予定されていた B くん(←実話w D1 で中途退学,就職のため).昼頃まで学校にいて,追いコンの前に今月末で引き払う家の片付けをしようとして,一旦,自宅に戻っていて,そこで被災したらしい(なので,地震直後に学校で探したときに研究室メンバーのうち彼だけがいなかった:一日目「被災」を参照).

地震直後,研究室の教官に「無事である」とメールを送り,そのまま基本的には自宅で待機していたらしい(地震直後は,メールなら送れたし届いた).我々は,震災当日,徒歩での帰り道の途中(18:00 頃),彼の家を訪ねていたのだが,その時に彼とは接触できなかったので,そのことを聞くと,「あ,多分,その位の時間はちょっと外に出ていました」とのこと.……もしかして,追いコンが実施されると思って待ち合わせ場所にいっていたんじゃ…….

彼の家は,水道がしばらく使えて,その水を溜められたことと,近所に在庫を吐いたスーパーが多かったことで,しばらくは耐えられそう,ということでした.

その日の夕飯を一緒に Do-Dai? と誘ったものの,結局,彼はやってきませんでした.……追いコン中止がよほどショックだったのでしょう…….

ついでに,彼の近所に住んでいた後輩 O くん(M1)の状況も聞くなどしました.

〜K くん(D1)の場合〜
被災〜帰宅まで行動をともにしていたので,まぁ,大丈夫であろうと思っていたらいちばんとんでもない状況だったのが K くんでした.

震災当日,翌日ともに,家のごく近所の散策を除いて,ほとんど行動せず,買い出しも行っていない状況でした.更に,ガスも止まっているため,家内の備蓄(米,パスタ)があっても調理もままならず,生米を水に数時間浸して食っていたらしいです.なんと言う,愚か者…….やっぱり,博士課程進学者とか社会的にはなんの役にも立たない専門バカだと思いますw 幸いにして,地震直後は貯水タンクに水が残っていたらしく,その水を 4 l ほど溜めていたため,水だけはそれなりに持っていたようです.

夕飯の話を振ると,二つ返事で我々に合流しました.……つーか,さすがに酷すぎたので強制保護しました.

〜M くん(M1)〜
被災〜帰宅まで行動をともにしていました.地震当日は,家に帰ってすぐに寝てしまったのでよく解っていなかったものの,翌朝,目覚めると,台所に作り置きしてあったカレーが飛び散っていたらしいです.これが我が研究室最大の被害@自宅です(なお,このカレーは 3/30 現在,まだ片付けられていないとか……w).

地震翌日は,近所の M1 である T くんと二人で買い出しを兼ねて被害状況を見て回っていたそうです(二人とも単車持ちなので行動範囲は我々より広かった).特に,僕らが行かなかった仙台駅方面の様子をみてきたようでした(逆に長町側は見ていなかったらしい).

夕飯の話をすると,合流しました.

この三人のほかに,T くん(M1)にも声を掛けようとしたのですが,アパートの部屋番号が解らず失敗しました.のちに本人に聞いたところ,「林さんたちの声は聞こえてきたけど,すでに寝ていたし,なんか面倒くさかったので出なかった」とのことw

そんなわけで集まった 5 人で,同期(oanus)の家にだらだらと移動し,夕飯になりました.夕飯は,余り物の野菜と肉,この日に入手した野菜などを適当に突っ込んだ野菜炒めでした.食卓をにぎやかなメンバーで囲っていることや,腐らせてもしょうがないと贅沢に肉と野菜をぶち込んだ,割と豪華な野菜炒めだったこともあり(一人はそれまでの主食が生米だったしw),真っ暗な中での夕飯でしたがなかなか楽しいものでした.

夕飯後には炭水化物の補給と称して,パンがないのでケーキを食べました.そして,ケーキの当てに oanus 氏がお茶を入れ,今後の相談や情報交換を行いました.この際の M くんの情報から,仙台駅前ではすでに電気系統が一部復旧していることなどを聞き,翌日,K 先輩,同期(oanus),後輩 K,僕の四人で,駅前に出ることを計画しました.


そんな被災後ティータイム(HTT).



「仙台駅前へ」に続く.

震災被災記録5:地学巡検・後編(長町)

二日目「地学巡検・後編(長町)」

(※無計画に書きはじめたので,登場人物が増えてきたのに同一人物を章によって別の呼び方してたり,文体が安定していなかったりがありますが,全編書き終わったら,最終的に全編をリテイクするつもりなので,ご容赦を…….いちおう仙台脱出までの話を書くつもりです)

同期と K 先輩の来訪で昼寝から目覚めました(来客用の原始的なブザーは生きていたのです).軽く準備して(といっても何があってもいいように普通にジャンパーまで着た状態で寝ていました),長町へ向かいました.

長町へ向かう道の途中,瀧沢寺の裏の墓地の横を通りました.墓地内はさほど被害を被っていなかったのか,新型の耐震墓石が多かったのか,墓石の倒壊は,多くはありませんでした(これは結構驚きました.卒塔婆や燭台やお供え物の散乱の方が気になる感じでした).しかし,古そうな墓石は,いくつか倒れていました.

鹿野小学校の脇を抜けて,286 号線に抜ける道を長町南方向に出る途中,八木山よりも表面的な被害が目につきました.特に店舗の看板の崩落,外壁のモルタルや吹き付けたコンクリートの剥落などがかなり目につきました.また,ガラス張りの美容院のガラスが割れている,車の営業所(日産)の天井に埋め込まれた空調が天井を突き破って落ちてきているなどのかなり大きな被害が目につきました.

我々は,286 号線を横断し,長町南のモールを目指しました.基本的に通電していない地域では信号もついていなかったのですが,主要幹線である 286 号の大きな交差点の信号はついていました.因みに,横断中に,286 号線の中央線付近に,かなり大きな地割れが起こっているのに気付きましたが,すでに地割れ程度は見慣れてしまっていたためか,さほど気にならなくなっていました.

モールに抜ける道に入ってしばらく歩いた後,遠目で仙台南郵便局を見て愕然としました.僕も,モールでの買い物ついでに頻繁に利用する郵便局だったのですが,二階建ての一階部分が潰れてしまっていました(このときはデジカメが学校の崩壊した本のどこかに埋もれている状態,携帯は充電切れでカメラとして使えず,写真等は撮れませんでした).急いで近くに寄ると,その悲惨さは目を覆うばかりでした(地震の発生は午後 3 時前,間違いなく郵便局には人がいた時間です.どうであったのかは知りませんが,重傷者や死者が出ていないことを心底祈っています).また,郵便局の隣にはグラウンド(?)のような赤土がむき出しになっている広い空き地があるのですが,そこにはほぼ南北方向(ちょっと記憶が曖昧なので違うかも知れません……)の大規模な地割れが走っており,広場の一角を液状化した泥水が覆っている,という状況でした(これをちゃんと写真等で記録しておけば立派な地質資料になっていたはずですが,これも記録できていません…….無念).その付近の歩道は,至る所でたわみやアスファルト割れが起こっていました.これらは,アスファルトの下の砂層が液状化した結果だと思われます.

長町モールの周辺は,もっと酷い液状化が起こっており,特にモール周辺の歩道はたわんでいないところを探すのが大変な状況でした.また,至る所で液状化した泥水が噴き出した後,泥水として吹き出してしまった結果,アスファルトの下の砂層がなくなったことであいた穴,アスファルトのたわみ,地割れなどが観察できました.長町に降りてくるにあたって,ちょっとだけ「モールが在庫の処分で物資を販売しているのではないか」という希望を持っていたのですが,あっという間にそんな幻想はぶち殺されてしまいました.恐らく,モール内部も床が歪んだり,床が抜けたり,泥水が噴き出したりといった被害が出ていたのではないかと思います(当然,敷地内は広い駐車場を除いて立ち入り禁止になっていたので実際にはどうなっていたのか確認していません).また,店内入り口のガラスの自動ドアが割れている場所も多々ありました.

モールの物販を期待していた我々は,ちょっと気落ちしながらモールをぐるりと一周するようにして,286 号に戻っていきました.途中も液状化の痕跡,地割れ,穴などが飽きるほど見られました.また,途中,多くの個人商店などがありましたが開いている店は,ほぼありませんでした.本当に被害の少ない八木山は特殊なんだな,と改めて思ったのを覚えています.

その後,我々は 286 号に沿って西進しました.286 号は山形方面の左車線だけに大量の車が並んでいました(この列の正体は,のちに仙台を脱出するときに判明したのですが,遥か先(数 km)のガソリンスタンドに並ぶ車の列でした.このときは「山形に脱出しようとしている人が多すぎて車がスタックしているのか?」とか話していましたが……).

286 号線沿いの店舗も基本的には営業していませんでしたが,焼き肉屋が一件,店の前で在庫の肉を焼いて販売していました.また,そのすぐ近くのケーキ屋では,ケーキのスポンジ,クッキー,洋菓子類,たまごなどを販売していました.そこで,K 先輩が「パンがないからケーキを食べよう!」というギャグを思いついたため,三人でケーキのスポンジを購入しました.

286 号からマミーバーグの脇を抜け,三神峯公園沿いの道を登って八木山に戻りました.途中,付近の避難所に指定されている芦口小学校を通りかかったので,中の様子を確認しました.芦口小学校は,八木山小学校とは異なり,体育館を開放して本格的に避難民を受け入れている状況でした.体育館の中には,ストーブが炊かれ,避難している方々が毛布にくるまっている,という TV でみるような「避難所」そのものの様子でした.それが地震の現実なのに,本当に運良く自分とその周辺が無事だったおかげで,現実と自分が乖離しているような気がして,ちょっと混乱するような変な気分になったのを覚えています.取り敢えず,次に大きな地震がきて自分の家の周辺がダメになったらここに来ればいいのだな,という情報をインプットして自宅へ戻りました.

帰りがけに,三人で近所の個人商店に寄って,まだ辛うじて残っていた野菜を少しだけ購入しました(市街地が意外とダメージを受けていることなどをみて,ちょっと危機感を持ちはじめていました).K 先輩と同期は,「どうせ明日も明後日も仕事なんてできないんだから飲もう!」なんて空元気を振り絞って,ビールを購入していました(僕は完全な下戸なのでジュースを).

そのままのテンションで,同期の家に集まってなんだかよく解らない乾杯をしました.

「被災後ティータイム」に続く.

2011年3月29日火曜日

震災被災記録(付録):震災直後の写真@学校

数少ないながら,写真を撮っていたので一部を公開します.


僕のデスク.机の上に耐震粘着下敷き(震度 7 まで耐えられるという売り)をつけていた金属ラックが綺麗にひっくり返って落ちています.プリンタとスキャナが乗ってました.

僕のデスクと oanus 氏のデスクの間.どっちも本持ちなので床は本の海に…….

居室の入り口側.霞んでいるのはホコリと天井からパラパラ落ちてきた白い粉のせい.本棚が倒れなかったのは,不幸中の幸い.


oanus 氏の机の反対側.こっち側にも oanus 氏の本は落ちてますねw

非常口側の廊下.積んであった貴重な文献が崩れちゃってます.奥にある岩石サンプルはキャスター付き台車に乗っていたので崩れていません.

震災被災記録4:地学巡検・前編(八木山)

二日目「地学巡検・前編(八木山)」

初日から二日目にかけての夜は,暗闇のなか,幾度となく余震が襲いました.体が地震に対して過敏になっているのか,余震が起こるたびに目が覚め,夜の間は薄い眠りと覚醒の繰り返しで,しっかりと熟睡できたのは夜が白み始めたころのことでした.正直,かなり精神的にやられており,ビビっていましたw 結局,二日目の朝は強めの余震で目が覚めましたが,それほどよく眠れたとは言えない状況ででした.

目覚めて,ぼうとした頭で,日の光に照らされる昨日の夜は暗くて全容のわからなかった部屋の中の散乱した本や CD をみて,改めて地震の現実を再認識しました.

朝ご飯として,残っていた冷凍米(もちろん冷凍庫は機能していなかったので溶け始めていました)と卵とあまりものの野菜(キャベツ,ニンジン)でおじやを作って食べました.気が張っていたせいなのか,作った分の半分も胃には入りませんでしたが,やはり,暖かいものを食べると安心するもので,今日の行動予定を考えられるくらいまで,気持ちに余裕がでました.

朝食後,ぼうっとしていると,近所に住んでいる同期と K 先輩がうちを訪ねてきました.三人の家の状況を報告しあい,先輩のうちでは水がでること,私と同期の家ではガスが出ることなどを確認しあい,しばらくは共同戦線を張ることを確認しました.K 先輩が近所の散策を済ませており,近所の個人商店が開いていること,公衆電話が無料解放されていることなどの情報を得ました.また,K 先輩の買ってきていた河北新報の緊急時仕様の薄い朝刊に載っている写真の数々で,この震災が想像以上に大きなものであったことを改めて認識しました.

その後,学校から支給された緊急時用の備蓄食糧(大きめの乾パン 5 枚,ペットボトル水 1.5 l)では当座のインフラ停止(この時点では,情報不足もあって長期のインフラ停止は想定していなかった.長くて一週間程度という認識)も乗り切れないという判断と,単純な地質学徒としての興味で,周辺地区の散策と買い出しを行うことを決めました.

偶然,K 先輩が近所のスーパーが在庫を吐き出そうとしているのを早々に発見してくれたことで,僕ら三人は開店早々に並ぶことが出来,物資の調達は 11 時を回る前に終わりました.僕は,この時点では 1 週間程度の耐久生活を想定しており,カップ麺× 3,パックご飯× 3,清涼飲料水,お茶類 3 l,缶詰数個,リンゴ 2 個を購入しました(僕が店内に入れた時点で後ろに 50〜60 人近くの列ができていて,まだまだ増えている様子でした).僕のアパートは,ガスが生きていたので調理できるものが備蓄できたのは,精神の安寧に大きく役立ったと思います.この時点で,かなり,精神的な余裕が出ていました.

買い出し後,一旦,荷物を家に置き,朝作ったおじやに,買ってきたばかりのサバ缶を投入してお昼ご飯にしました.

食後,再び K 先輩,同期,僕の三人で集まり,八木山周辺の散策を行うことにしました.手始めに,前日の時点で封鎖されているという情報が流れた,青葉山−八木山間のルート(自宅と学校の最短ルート)がどうなっているのかを確認するために,自宅〜八木山動物園にかけてのルートを歩きました.

途中,崖の近くで,崖に平行な地割れ(というか "滑り")が何本も走っている様子(地質学的な時間スケールで,近いうちに崖ごと崩落すると予想されます),地割れがアパートの真ん中を突っ切ったために真っ二つに割れたアパート,倒れたブロック塀,はがれたモルタルなどをたくさん見ました.それらの観察から,自分の家の周辺がもの凄く運良く,被害がなかっただけであることを認識しました(僕のアパートは壁の塗料が禿げたり,新たに小さいヒビが入った程度で,ほとんど被害がありませんでした.地割れもごく近所では見られませんでした).

八木山橋への道は,動物園のところですでに封鎖されていました.

その後,研究室の他のメンバーと連絡を取ろうとするもののアパートの部屋番号が解らなくて失敗したり,八木山本町のデイリーヤマザキで買い物をしたりしました.また,偶然開いていたお餅屋さんで,おやつとして煎餅を購入したりもしました.

一通りの被害の確認が済んだ我々は,八木山生協に抜ける道を下って,避難所になっている八木山小学校を経由して自宅へ戻りました.八木山小学校には給水車が来ており,給水を待つ人の列が校庭を二周しているほどでした.

一休みしてから長町側に下って市街地の様子を確認するという取り決めをし,各自解散しました.その間,僕は,自宅で昼寝をしていました.

「地学巡検・後編(長町)」へ続く.

2011年3月14日月曜日

震災被災記録3:徒歩での帰宅

一日目「徒歩での帰宅」

地震による停電のため,信号が機能していないこと,災害時の鉄則として,緊急車両の通行を妨げないようにすること,などの理由から車を大学に置いて,徒歩での帰宅を決断しました.それならばと,研究室のメンバー(八木山組)でかたまって帰ることになりました.

取り敢えず,事前に八木山橋不通の連絡を受けていたので,川内から御霊屋に抜けて帰るルートを選択しました.

川内に降りる途中,何カ所かの道路の亀裂,陥没を確認しました(後にこの程度は小規模な被害だったと思い知ることになります).しかし,その時点ではほとんど情報がなかったこともあり,メンバーは割と気楽な遠足気分でした.具体的には,川内で,仙台城趾の門が崩壊しているのを確認しては,みんなで写真を撮る程度の余裕がありました.また,就活を抱える M1 が「明日,面接があるんですけど,どうにかして行けますかね?」なんて言っていました.

途中,yahoo ニュースをみて,この地震に気象庁が名前を付けたこと,マグニチュードが 8.8 に上方修正されたことなどを確認して,地震の大きさを改めて実感しました.全員が地質学徒ゆえ,日本近海の地震で,そのマグニチュードの地震が起こったことの衝撃は即座に理解できました(逆に,震源が近いにも関わらず,あまりにも周りの様子が平和で,「本当にそんな規模の地震なのか?」という疑問もあったくらいです).

川内を抜けてしばらく川沿いを歩いていると,土砂崩れで道が封鎖され,御霊屋側に渡ることができないことが発覚しました.そのため,愛宕大橋を通らないと八木山へのアクセスができないことになりました…….

どちらにしろ,自宅へは帰らねばならないため,覚悟を決めて愛宕大橋へ向いました.途中,個人商店で水や食べ物を購入しました.すでに電気が落ちていたので,ロウソクの灯りで手元を照らして,ソロバンで会計がなされていました.電気を使わない設備の強みをみました.

周囲の被害状況がわからないこともあり,当初は,全員で共同戦線をはるという案も出ていたのですが,歩いている限りでは,何カ所かの地割れや土砂崩れを確認した程度で,ほとんど建物の被害がなかったことなどもあり,みんな楽観的になって,テキトーに個々人で乗り切ろう,という流れができていました.そのくらい,街は平穏でした.その時には,月曜日には学校に行って散乱した本の片付けをしないとなぁ……,なんてことを考えていました.まぁ,入手可能な情報がニュース記事のヘッドライン程度だったのですからご容赦を(この時点では津波のニュースはほとんど速報しかなかった.もちろん,市街地の被害については全く情報なし.まして,茨城沖の地震,関東の被害なんて,ほとんど情報が入っていなかった).

結局,二時間~三時間かけて学校から家まで辿り着きました.着いたのは七時過ぎでした.もちろん,日が落ちてからは,電灯もつかない真っ暗闇でした.周囲に明かりがないせいで,良く晴れた星空がとても綺麗でした.

家に着いて,電気,水道が止まっていることを確認しました(ガスはプロパンなのでボンベの持つ限り大丈夫.ただし,ボンベの交換はいつになることやら……).

また,同じマンションの oanus 氏は部屋の中のものが倒れていたため,内扉が開かず,部屋に入れない状況でした(結局,いまは緊急時,ということで,扉のガラスを破って中には入れました).

取り敢えず,その日は,電気も通らない状況で,翌朝まで動きようがなかったので,空腹を紛らわせるために,学校で支給された乾パンを齧り,翌日以降に備えて布団に入りました.しかし,結局,余震のたびに目が覚めてしまい,熟睡できたのは日が明けるころのことでした.

「地学巡検・前編(八木山)」に続く.

震災被災記録2:避難

一日目「避難」

(※被災後,かなり興奮していたせいで,この辺りの記憶はかなり曖昧です)

余震が収まると避難がはじまりました.地震の最中に電気系統はすでに落ちており,昼間とはいえ,暗くなった階段をある程度の人数でまとまりながら降りました.

建物から出ると,既に,多くの人が避難していました.天気はよくなく,いまにも雪が降りそうな雲行きでした(実際,その後,降りだした).私は幸い,ヘルメット装着のうえ,ジャンパーを着ていたのですが,ほとんどの人は(地学屋しかいない場なので)ヘルメットはしていても,防寒着のない状態でした.避難した学生の中には泣いている女の子や,お互いの無事を確認して喜び合っている人たちがいました.私も研究室のメンバーのほとんどの無事を確認し,ホッと一息つく余裕が出てきました(このとき姿を確認できなかった後輩一名は,震災前にすでに帰宅しており,後々,無事が確認できました).

その後,お互いの安否確認,点呼等が済み,少なくとも校舎にいた人の中にはケガ人も死者もいないことがわかり,一同の表情に安堵の色が浮かびました.

安全衛生委員の教官から,真っ先に地震についての概要が伝えられました(この時点ではM8.3 県南部で震度 6 強,県北部では震度 7 という情報).なにより先にこの情報が流れる辺りが地学専攻という感じです.

その後,今後の対応が全く決まっていないこと,各階ごとに安全確認ができ次第,一時的に校舎に入る許可を出すので,その時に必要最低限の荷物をもったら各自担当委員に帰宅の報告をして帰ること,などが指示されました.

なお,この間もかなり強い余震が何度も起こっていました.しかし,命が無事だったこともあり,この時点ではみんなかなり気が抜けていたように思います.後輩の一人(@toshiroll)は揺れてる最中に iPhone で撮影した動画を見せたりしていました(その位の余裕を無理矢理にでもださないと,心が折れそうな状況だった,といい換えることもできます).あと,Twitter に安否情報を投稿している人は結構な数いたようです.私は,その時点では携帯が院生室の大量の本の下に埋れていたので,安否の投稿もできず,TL 上では死んだことになっていたかも知れませんw また,誰かがもってきたポータブルテレビがついており,津波被害の様子を伝えていました.仙台空港が海になった映像が衝撃的でした.

6 階の安全確認が済んだので,私を含めた 9 人が建物に入りました.階段では,避難時には気付かなかった新しい壁のヒビや,コンクリート片,コンクリート粉がずいぶんと目に付きました.

6 階につくと,実験室から漏れたと思われる有機溶媒の匂いが充満していました.私の指導教官の部屋は,中のものが倒れて居室への入室もままならない様子でした(最終的には無理矢理入ったようですが,結局,カバンを取るのがやっとで,靴は本に埋れてみつからなかったそうです).

私の院生室は本の散乱こそ酷かったものの,本棚の倒壊が奇跡的になく,他の部屋に比べて被害が少なかったようです.取り敢えず,私は MacBook と iPhone を入手して,部屋からでました.

その時点で私には,ある程度の余裕があったので,その階の別な部屋の様子を伺いました.

まず,多くの部屋で,内部のものの倒壊により,入室が困難な状況でした.私の部屋の向いの院生室は,私の部屋と異なり,本棚が盛大に倒壊していました.また,隣室である顕微鏡室は,いちばん大きな顕微鏡棚が倒壊していました(危険なので奥の確認はできませんでしたが,恐らく,まともに使える顕微鏡はほとんどないものと思われます).さらに,私の院生室の逆隣の試料置き部屋は,やはり,内部のものの倒壊により扉を開くこともできませんでした.入館できる時間が限られていたので,その辺りのチェックを済ませると,早々に建物をあとにしました.

避難スペースに戻ると,取り敢えず,Twitter に生存報告をしました.このとき TL が妙に荒れており,このメディアは,すごくパーソナルな情報の発信(例えば,TL むけの生存報告)にしか使えないのだな,ということを妙に冷静に思いました.ある意味幸運だったのは,この判断で変に Twitter に踊らされることがなかったことです.まぁ,それ以前に,電源がなくてその日の夕方には web アクセスすらままならなくなっていたわけですが…….

その後,担当の先生に帰宅の報告を済ませ,緊急食糧の乾パンと水(1.5リットル)を受け取り,帰途につきました.信号機が止まっていたので,車は大学に放置し,研究室のメンバーで固まって,徒歩で下校することにしました.また,八木山橋が閉鎖されていたので,かなり遠回りして帰る羽目になりました.

「徒歩での帰宅」へ続く.

震災被災記録1:被災

一日目「被災」

眠気と戦っていた午後二時半すぎ,目を覚ますために散歩がてら購買に行こうかと思い立ちました.ついでに,夜に予定されていた後輩の追いコンの軍資金を下ろそうとしていました.
その途中,地学棟 6 階のトイレに寄って,そこにて被災しました.幸い,用は済んでいたので(笑),すぐにトイレから脱出できました.

この二日前の大きめの地震以降,余震が続いていて,自分の三半規管に自信がなくなっていたこともあり,はじめの印象は,「放尿による血圧低下でふらついたのか?」というものでした.その後,「地震だ」と確信し,「この揺れが縦揺れだ」と気付いてゾッとしました.たぶん,この間,一秒程度.すぐにトイレから脱出し,廊下へでました.

廊下に出る頃には,ひどい横揺れに変わっており,立っているのも困難な状況で,廊下の壁に手をついて辛うじて半立ちになりながら,周囲を見回すことしかできませんでした.

その時,私の近くには研究室の後輩のK くんとM くんがおり,二人は実験室から飛び出してきたようでした.廊下では何人かの悲鳴と「落ち着け!」「伏せろ!」などの叫び声が聞こえました.とにかく,まともに立てる状況ではないので,身を伏せて落下物や滑ってくる棚から身を守るしかない状況でした.

僕のいたトイレのある部分は,建物のメインではなく,独立した,エレベーター,階段,トイレだけで構成された非常に細長い建造物(エレベーター棟)であったため,同じ廊下のすぐ近くにいた後輩たちと揺れの位相がズレていました.また,この建物とメインの建物の間の連絡通路は,早々に破断し,コンクリート片の落下し,土煙がもうもうと舞っていました.

そんな状況にも関わらず,なぜか,脳内は妙に冷静で,「この二つの建物のうち,倒壊しやすいのはこっちだろうなぁ.でも,ヒビが入ってコンクリート片が降り注いでいる連絡通路を通るのは危険だなぁ.だいたい,すでに崩壊が始まっている通路を通るより,ここにいる方がマシだろう.建物が倒壊したときは生きるのは諦めよう」なんてことを考えていました.どうやら向こう岸の後輩も同じようなことを考えていたのか,「残念だけど,kretacea さんは諦めよう.運がなかったんだ……」という表情をしていましたw

実際は知りませんが,揺れの継続時間は 5 分を越えていたのではないかと思います.体感的にはもっと長い気がしましたが…….

本震が済み,エレベーター棟が倒壊しなかった幸運を喜びつつ,急いで崩壊中の連絡通路を通り本棟へ移動し,後輩と無事を喜び合いました.

本震のあとに,それなりの規模の余震が立て続けに起こっていました.余震の規模が大き過ぎるので,歩くのが困難で,すぐには建物からでることができませんでした.

その後十数分で,ある程度余震が落ち着いて,避難がはじまりました.避難の前に自室を見ると,完全に本棚の本が抜けて,床に散らばっており,机の上にあったものも全て床に落ちている,悲惨な状況でした.そこで,改めて地震の規模の大きさを実感しました.

「避難」へ続く

2011年3月13日日曜日

生存報告

無事です.落ち着いたら震災被災の記録でも書きます(←いつになることやら……).

2011年3月7日月曜日

買ったもの記録

OASIS "Definitely Maybe"

むかーしむかし,それは,個人用の記録メディアがテープから MD に移り変わる頃に,MD に録音したものをずーっと持っていて,それで聞いていたアルバムなんだけど,解散記念(笑)の廉価版を見つけて思わず購入.

OASIS はブログでも散々こき下ろしているくらい大嫌いなバンドなんだけど,このアルバムと 2nd(の一部楽曲っていうか,"Champagne supernova")だけは認めざるを得ない.このアルバムだって The Stone Roses のパクリに過ぎないんだけど,やっぱり "Live forever" のキラキラ具合,"Supersonic" のグダグダ感,"Cigarettes and Alchohol" の極限までに突き詰めたダサさなどなど,このバンドが出てこなければ存在し得なかったスタイルが確実に存在している.そこら辺が好き."Married with Children" とかもたまらない.

The Cure "4:13 Dream"

こっちも今更感たっぷりなんだけど,買っていなかったので.

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「魔法少女まどか☆マギカ」 1 巻

話題作なのでw

2011年2月14日月曜日

意地悪クイズ

"毛の生えたチ○ポをマ○コに入れてゴシゴシこするセックスな〜んだ?"

……というわけで,「ぱら☆いぞ」(道満晴明),「ファントムブレイブ(新装版)」(道満晴明),「顔のない女」(高橋葉介)を入手.「ファントムブレイブ(新装版)」は表紙のためだけに購入.

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「ぱら☆いぞ」 1 巻

今巻は,リーダーがレギュラー化するくらいまでのエピソードを収録していた(一昨年くらいまで?).あと,今月号掲載の過去編もフルカラーで収録してた.基本的に,カラーはそこだけ.未収録エピソード,修正箇所などは未照会のため不明.

やっぱり,道満先生は天才.以上.

「顔のない女」

久し振りの完全新作連載.「もののけ」も新作と言えば新作ではあったけど,スピンオフでもあったし,物語は過去作を踏襲したものだったので(例えば,魔実也の立ち位置を手の目に変えているだけ),新作感が少なかった.

この作品の肝は,高橋作品の過去の怪物を新しい主人公(顔のない女)が殺していく,という部分.例えば,クレイジーピエロクラスの大物をあっさり殺してしまう.

……しかし,ストーリー自体は面白いかというと微妙.主人公も,サバサバした感じや,バストサイズや自分の容姿を気にしている設定とかは嫌いじゃないんだけど,いまいち魅力に欠ける…….まぁ,高橋コレクターだったら買うべきというレベルか.

「ファントムブレイブ(新装版)」

表紙の絵のためにお布施.でも,判型が大きくなっていたので,ペンタッチとか見やすくなってる.

2011年1月25日火曜日

10000 日

今日(2011/1/25)で,僕は生誕 10000 日になるらしい.

高校時代の友人が「生誕 10000 日を過ぎてから,そういう記念日があったことに気付いた」という内容の日記を,昨日(2011/1/24)mixi にあげており,それを読んで,自分の記念日が気になって調べてみたら今日だった,というなんとも偶然な気付き方をした.

そんなわけで,今日がその,生誕 10000 日なわけだが,10000 日という区切りは,なんだか宙ぶらりんでよく解らない.まぁ,「まさか,自分がこんな年まで学生をやっているとは思わなかったw」とか,「これまでの人生を 10000 という量で表現することで数万年スケールが体感可能になった」とか,その程度のことでしょうか…….

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因みに,次の綺麗な切れ方の日齢は 11111 なのだが,これは,30 歳 5 ヶ月ちょうどに迎えることになるらしい(参考:http://hp.vector.co.jp/authors/VA014370/jscript/datecalc/dcalc.htm).その頃までには,働けてると良いなぁ…….

2011年1月24日月曜日

Panty & Stocking with Garterbelt - the Original Soundtrack

昨年末に発売されていたものの,僕の生活圏にある CD 屋では入手できず,気付いたら Amazon をはじめとした web 上の通販サイトでも在庫切れで,年始に実家に帰ったときに都内の CD 屋を巡っても見つからず,結局,Amazon の再入荷を待って,手に入ったのは先週末でした.どんだけ人気なんだよw

Panty & Stocking with Garterbelt - the Original Soundtrack

なんというか,アニメのサントラじゃなくて,コンセプトアルバムという感じ.個々の曲も,本編使用時とは別物に近いぐらい作り込まれてるし(多分,曲によってはアニメ本編使用のアレンジとアルバム収録のアレンジが違う曲もある気がする.聞き比べてないからわからないけど,単にパーツを抜き出して短くしているだけではなさそう).

とにかく,全編を通して退屈することはない.

2011年1月18日火曜日

白亜紀のアノキシア

※この日記は Twitter 上の古生物屋クラスタがお遊びではじめた「創聖のアクエリオン」の替え歌を作ろう企画(?)の中で僕が作った替え歌です.経緯等はとぅげったなどを参照下さい.

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白亜紀のアノキシア

調査の始まりの日 高い杉の下で
トンビたちの声の遠い残響 1人で聞いた

調べたものすべて 集めた試料(もの)すべて
この手に抱きしめて 次は何処を調べに行くの

答えの潜む泥岩の地層
調べなければ 絶滅層準わからない
南北走向を持つ累層
断層のない この地域を
この事変知るため調査に来た

一万年と二千年間隔 試料採集(サンプリング)
800 個を過ぎた頃から 人手が欲しくなった
一億と二千年前に積もってた
酸素減った海底は黒いヘドロの堆積が絶えない

事変が起こる前の 無酸素起こる前の
黒い泥岩溶かして 有孔虫拾い出したいよ

増えすぎた藻類の遺骸
沈んでいき食い尽くす海底の酸素
たちあがれ 硫酸還元菌
分解しない 有機物
軽い炭素抱え埋もれていった

一万年と二千年前から温暖化
八千年過ぎた頃から徐々に酸素がなくなった
一億と二千年あとにも起こってる
それを知ったその日から僕の本棚には地中海の本

海台くり返し大きくなって
何度も地殻の生産増えて
二酸化炭素増加した大気 温暖になったとしても
生産量増えるたびに…

一億年と二千年前に起こってた
八千年過ぎた頃からもっと激しくなった
一億と二千年前から積もってた
酸素減ったその日から
一万年と二千年前から温暖化
八千年過ぎた頃から徐々に酸素がなくなった
一億と二千年あとに僕がきて
論文化をしたその日から 僕の仮説に質問は絶えない

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まだ,不完全だけど,取り敢えず,頭の体操に 30 分くらいかけて作ってみた.