一日目「避難」
(※被災後,かなり興奮していたせいで,この辺りの記憶はかなり曖昧です)
余震が収まると避難がはじまりました.地震の最中に電気系統はすでに落ちており,昼間とはいえ,暗くなった階段をある程度の人数でまとまりながら降りました.
建物から出ると,既に,多くの人が避難していました.天気はよくなく,いまにも雪が降りそうな雲行きでした(実際,その後,降りだした).私は幸い,ヘルメット装着のうえ,ジャンパーを着ていたのですが,ほとんどの人は(地学屋しかいない場なので)ヘルメットはしていても,防寒着のない状態でした.避難した学生の中には泣いている女の子や,お互いの無事を確認して喜び合っている人たちがいました.私も研究室のメンバーのほとんどの無事を確認し,ホッと一息つく余裕が出てきました(このとき姿を確認できなかった後輩一名は,震災前にすでに帰宅しており,後々,無事が確認できました).
その後,お互いの安否確認,点呼等が済み,少なくとも校舎にいた人の中にはケガ人も死者もいないことがわかり,一同の表情に安堵の色が浮かびました.
安全衛生委員の教官から,真っ先に地震についての概要が伝えられました(この時点ではM8.3 県南部で震度 6 強,県北部では震度 7 という情報).なにより先にこの情報が流れる辺りが地学専攻という感じです.
その後,今後の対応が全く決まっていないこと,各階ごとに安全確認ができ次第,一時的に校舎に入る許可を出すので,その時に必要最低限の荷物をもったら各自担当委員に帰宅の報告をして帰ること,などが指示されました.
なお,この間もかなり強い余震が何度も起こっていました.しかし,命が無事だったこともあり,この時点ではみんなかなり気が抜けていたように思います.後輩の一人(@toshiroll)は揺れてる最中に iPhone で撮影した動画を見せたりしていました(その位の余裕を無理矢理にでもださないと,心が折れそうな状況だった,といい換えることもできます).あと,Twitter に安否情報を投稿している人は結構な数いたようです.私は,その時点では携帯が院生室の大量の本の下に埋れていたので,安否の投稿もできず,TL 上では死んだことになっていたかも知れませんw また,誰かがもってきたポータブルテレビがついており,津波被害の様子を伝えていました.仙台空港が海になった映像が衝撃的でした.
6 階の安全確認が済んだので,私を含めた 9 人が建物に入りました.階段では,避難時には気付かなかった新しい壁のヒビや,コンクリート片,コンクリート粉がずいぶんと目に付きました.
6 階につくと,実験室から漏れたと思われる有機溶媒の匂いが充満していました.私の指導教官の部屋は,中のものが倒れて居室への入室もままならない様子でした(最終的には無理矢理入ったようですが,結局,カバンを取るのがやっとで,靴は本に埋れてみつからなかったそうです).
私の院生室は本の散乱こそ酷かったものの,本棚の倒壊が奇跡的になく,他の部屋に比べて被害が少なかったようです.取り敢えず,私は MacBook と iPhone を入手して,部屋からでました.
その時点で私には,ある程度の余裕があったので,その階の別な部屋の様子を伺いました.
まず,多くの部屋で,内部のものの倒壊により,入室が困難な状況でした.私の部屋の向いの院生室は,私の部屋と異なり,本棚が盛大に倒壊していました.また,隣室である顕微鏡室は,いちばん大きな顕微鏡棚が倒壊していました(危険なので奥の確認はできませんでしたが,恐らく,まともに使える顕微鏡はほとんどないものと思われます).さらに,私の院生室の逆隣の試料置き部屋は,やはり,内部のものの倒壊により扉を開くこともできませんでした.入館できる時間が限られていたので,その辺りのチェックを済ませると,早々に建物をあとにしました.
避難スペースに戻ると,取り敢えず,Twitter に生存報告をしました.このとき TL が妙に荒れており,このメディアは,すごくパーソナルな情報の発信(例えば,TL むけの生存報告)にしか使えないのだな,ということを妙に冷静に思いました.ある意味幸運だったのは,この判断で変に Twitter に踊らされることがなかったことです.まぁ,それ以前に,電源がなくてその日の夕方には web アクセスすらままならなくなっていたわけですが…….
その後,担当の先生に帰宅の報告を済ませ,緊急食糧の乾パンと水(1.5リットル)を受け取り,帰途につきました.信号機が止まっていたので,車は大学に放置し,研究室のメンバーで固まって,徒歩で下校することにしました.また,八木山橋が閉鎖されていたので,かなり遠回りして帰る羽目になりました.
「徒歩での帰宅」へ続く.