2011年3月29日火曜日

震災被災記録4:地学巡検・前編(八木山)

二日目「地学巡検・前編(八木山)」

初日から二日目にかけての夜は,暗闇のなか,幾度となく余震が襲いました.体が地震に対して過敏になっているのか,余震が起こるたびに目が覚め,夜の間は薄い眠りと覚醒の繰り返しで,しっかりと熟睡できたのは夜が白み始めたころのことでした.正直,かなり精神的にやられており,ビビっていましたw 結局,二日目の朝は強めの余震で目が覚めましたが,それほどよく眠れたとは言えない状況ででした.

目覚めて,ぼうとした頭で,日の光に照らされる昨日の夜は暗くて全容のわからなかった部屋の中の散乱した本や CD をみて,改めて地震の現実を再認識しました.

朝ご飯として,残っていた冷凍米(もちろん冷凍庫は機能していなかったので溶け始めていました)と卵とあまりものの野菜(キャベツ,ニンジン)でおじやを作って食べました.気が張っていたせいなのか,作った分の半分も胃には入りませんでしたが,やはり,暖かいものを食べると安心するもので,今日の行動予定を考えられるくらいまで,気持ちに余裕がでました.

朝食後,ぼうっとしていると,近所に住んでいる同期と K 先輩がうちを訪ねてきました.三人の家の状況を報告しあい,先輩のうちでは水がでること,私と同期の家ではガスが出ることなどを確認しあい,しばらくは共同戦線を張ることを確認しました.K 先輩が近所の散策を済ませており,近所の個人商店が開いていること,公衆電話が無料解放されていることなどの情報を得ました.また,K 先輩の買ってきていた河北新報の緊急時仕様の薄い朝刊に載っている写真の数々で,この震災が想像以上に大きなものであったことを改めて認識しました.

その後,学校から支給された緊急時用の備蓄食糧(大きめの乾パン 5 枚,ペットボトル水 1.5 l)では当座のインフラ停止(この時点では,情報不足もあって長期のインフラ停止は想定していなかった.長くて一週間程度という認識)も乗り切れないという判断と,単純な地質学徒としての興味で,周辺地区の散策と買い出しを行うことを決めました.

偶然,K 先輩が近所のスーパーが在庫を吐き出そうとしているのを早々に発見してくれたことで,僕ら三人は開店早々に並ぶことが出来,物資の調達は 11 時を回る前に終わりました.僕は,この時点では 1 週間程度の耐久生活を想定しており,カップ麺× 3,パックご飯× 3,清涼飲料水,お茶類 3 l,缶詰数個,リンゴ 2 個を購入しました(僕が店内に入れた時点で後ろに 50〜60 人近くの列ができていて,まだまだ増えている様子でした).僕のアパートは,ガスが生きていたので調理できるものが備蓄できたのは,精神の安寧に大きく役立ったと思います.この時点で,かなり,精神的な余裕が出ていました.

買い出し後,一旦,荷物を家に置き,朝作ったおじやに,買ってきたばかりのサバ缶を投入してお昼ご飯にしました.

食後,再び K 先輩,同期,僕の三人で集まり,八木山周辺の散策を行うことにしました.手始めに,前日の時点で封鎖されているという情報が流れた,青葉山−八木山間のルート(自宅と学校の最短ルート)がどうなっているのかを確認するために,自宅〜八木山動物園にかけてのルートを歩きました.

途中,崖の近くで,崖に平行な地割れ(というか "滑り")が何本も走っている様子(地質学的な時間スケールで,近いうちに崖ごと崩落すると予想されます),地割れがアパートの真ん中を突っ切ったために真っ二つに割れたアパート,倒れたブロック塀,はがれたモルタルなどをたくさん見ました.それらの観察から,自分の家の周辺がもの凄く運良く,被害がなかっただけであることを認識しました(僕のアパートは壁の塗料が禿げたり,新たに小さいヒビが入った程度で,ほとんど被害がありませんでした.地割れもごく近所では見られませんでした).

八木山橋への道は,動物園のところですでに封鎖されていました.

その後,研究室の他のメンバーと連絡を取ろうとするもののアパートの部屋番号が解らなくて失敗したり,八木山本町のデイリーヤマザキで買い物をしたりしました.また,偶然開いていたお餅屋さんで,おやつとして煎餅を購入したりもしました.

一通りの被害の確認が済んだ我々は,八木山生協に抜ける道を下って,避難所になっている八木山小学校を経由して自宅へ戻りました.八木山小学校には給水車が来ており,給水を待つ人の列が校庭を二周しているほどでした.

一休みしてから長町側に下って市街地の様子を確認するという取り決めをし,各自解散しました.その間,僕は,自宅で昼寝をしていました.

「地学巡検・後編(長町)」へ続く.