2014年12月8日月曜日

半径 5 m と前後合わせて 10 人

これが,普通の人の興味と関心が向かう限界だと思う.もちろん,数字は喩えだけれども,斯様に人の意識の及ぶ範囲というものは狭い,ということだ.こういう風に狭いからこそ,観測者(自分)がそのときにある立ち位置がその人の世界の全てになってしまう.言い方が悪いうえに極論だけれども,「ワルそなやつは大体トモダチ」な環境にいれば,いわゆる一般的とされるサラリーマンのことは分からないし関心がないだろうし,生まれたときからハイソサエティーに所属している人間には,ワーキングプアがおかれている世界は(どんなに聞いたって)分からないし,関心の対象にはなり得ない.

基本的に,コミュニティーを成立させるエンジンになりうるのは連帯感や相互理解という幻想で,前後 10 人や半径 5 m が(一部であっても)重なると,お互いの世界が関心の対象となりあたかもひとつのコミュニティー(20 人)が存在すると錯覚してしまう.しかし,そこがひとつのクラス程度の人数しかいない閉鎖系でもない限りは,端成分同士が理解しあえていることは,基本的にはないだろう.

人が関われる世界は,年を取るごとに狭くなる.貧富の差,性差,学力の差,運動能力の差,世界観の差にとらわれることのない交遊を築けるのは,まぁ,幼稚園から小学校くらいまでであって(この頃であっても貧富や出自は,主に親の影響によって,交遊を妨げる障害になることもあるだろうけれど),中学にでも入ると相互に共有しきれない世界が広がるにつれて様々な要因が交遊を阻害し始める.高校・大学になると厳然たる(学力による)篩い分けの結果,住む世界すら隔てられてしまうことが多々ある.それぞれのいる場所(階層と言ってもいいけれど,本質的に上下が存在するわけではないので平面状に点在しているコロニーと仮定したいところ)が固定化して細分化していくことで(具体的に言えば就職を経て会社に入ってしまえば,通常,重要な人間関係の大部分は自分のいる会社 [大企業であれば自分のいる部署],家族,綿密な連絡の継続している親友程度になるだろう),自分の興味の及ぶ 「10 人」の多様度は減少していくだろう.

もちろん,自分の興味の及ぶ世界の広さも同じことで,子供の頃は家と学校と遊びに行く公園程度が世界のほとんどで,自分に影響の及ぶことの全てが自分の「半径 5 m」で納まっていたから,その勘違い全能感は巨大だったと思う.しかし,年を取れば世界は広大であることを知って,自分の関心の及ぶ「半径 5 m」のなかに入れるものを選ばなければならなくなり,そのあまりのスペースのなさに気が付いていくものだ.世界の広大さに対して,自分の関心の及ぶ範囲は,あまりにも狭い.

そうやって,自分のもつ世界の狭さを自覚することで絶望して,諦観に至って,その範囲の中を幸福で満たせるように生きていくのが大人になるということなのかもしれない,などと感傷的な感想を述べてみるのもいいが,いまの世界は,そこまで単純ではない,ということが,この記事の主題.

世の中の技術が発展して,人は暇になった.暇になったことは,「半径 5 m,前後 10 人」にちょっとした余裕を生じさせた.現代人は,そういう,少しだけ空いた自分の世界の余裕に,なにかいまの自分の関心にないものを詰め込むことに快感を覚えるらしい.

こういうものの典型が,SNS による緩く広い連携や,新書の読み齧りや,生涯学習なんかであって,それは一面的には,非常に有益な事象だと思う.こういう社会全体のリテラシーを向上させるようなものは,少し前の時代にはありえなかった.

例えば,近年盛んになっている SNS とか情報による緩い連携は,光学望遠鏡を手渡されているようなものだと思っている.時折,望遠鏡を覗いてみると自分が関心を捨てた世界にいるかつての知人や遠い世界に居る著名人の様子が可視光を反射するものに限って見えるようになる.それですべてが見えた気になるし,その世界に関心をもったという満足感に浸れる(そして,可視光の反射したもの以外が存在していることにすら気付かない).この満足感が幻想を生む.お互いに,気が向いたときにだけ望遠鏡を向けあって,世界の上辺を確認しあうことで,全然違う世界にいる他人と同じ世界にいられていると錯覚させる.特に,かつて同じコミュニティーを形成していたことがあるこの錯覚のもつ麻薬のような快楽が,これらの緩い連携に人を魅きつけているのかもしれない.

ただ,SNS なんかの生み出す共同体幻想は,大体の場合,自分の関心に近い範囲をやや拡大するに過ぎないので,その幻想に溺れることは,そこまで悲惨な状況を生み出すことはないだろう.しかし,メディアや報道による共同体幻想はもっとひどい.それらは,誰か(記者)が望遠鏡で覗いて書いたとある世界の報告書を読んでいるだけのものだ.報道をみたって,その対象となった世界を復元することなんて絶対に出来ない.それは,自分が深く関わっている世界の報道を読めば明らかなことだろう.

もちろん,メディアも報道も昔からあったし,それらを見ることは昔からあったのだけれど,少なくとも一昔前はそれらに感ける暇の方がなかった.みんな忙しかったのだ.だから,自分の「半径 5 m,前後 10 人」の幸せと利益だけを考えていれば良かった.

しかし,情報化社会になって,気が向いたときに「半径 5 m,前後 10 人」の外の世界の上辺を眺めることが容易になったし,お隣のコミュニティーどころか,そこから一足飛んで全世界に向けて情報を発信することが容易になった.この結果,いまの社会は,一介の主婦が,化学も,物理も,工学も,原子力というエネルギーも,原子力発電の仕組みも,放射化学も, その危険性も,それに対する事故対策も,現場で働く人間の仕事も,世界のエネルギー事情も,エネルギー外交も,環境負荷も,なにも知らないまま,「脱・原発(※)」と恥ずかし気もなく唱えられる程度に,大きな幻想を生み出している恐ろしい社会になってしまった.そして,この状況をコントロールすることは誰にも出来ないのだ.

--

※当然,「脱・原発」と唱えることが問題ということではなく(あらゆる,とまでは言わなくても,どこかの分野に専門性があって,それ以外の分野についてもある程度の勉強をした上で判断しているのであれば,「脱・原発」だろうが「原発推進」だろうが,なにを唱えても関係はない),問題は,全くの無知が,報道やメディアの情報に触れるだけで「脱・原発」と唱えられる知識を持っている世界にいると錯覚できてしまい,なおかつそういう主張を出来てしまうということを規制できないということ.この「脱・原発」に「反・韓国」,「右翼的な思想」,「強硬外交」,「死刑制度の存続」なんかのいわゆる「ネトウヨ」言説を当てはめても本質的には同じこと.

--

この現象の質が悪いのは,自分を中心とする「半径 5 m,前後 10 人」の世界が均質化していることで,余暇に得た自分の巨大な妄想について気付かせてくれる人とほとんど関わりを持てないということだ.その結果,勘違いを助長して,妄想をより強固にしていく(そんな感じの人,バカッターや顔本にいっぱい居るでしょう?もしかすると,自分の「フォロワー」や「友達」にもいて,その人の発言を見るたびに頭が痛くなることだって珍しくもないのでは?).そして,時々覗く世界の少し先には余暇があっても興味がないから,そこで行われている現象は見ることさえしない.もしかしたら,その世界の存在すら知らないだろう.これは,ちょっとしたホラーだ.

そもそも,ほとんどの人は,自分の「半径 5 m,前後 10 人」の外の世界について,論理的に物事を考えるのに必要十分な知識を得ることも出来ないし(能力の問題ではなく忙しさの問題),かなり多くの人はそもそも感情的になることなく論理的に物事を考察することなんて出来ないので(こっちは教育と能力の問題),望遠鏡で眺めたり,誰かが望遠鏡で眺めた話を聞いたりしただけで,何かを語った気になって悦に入っているだけなのだけれど,そのことにも気付かないし,自分の関心のある世界には,それを諭してくれる人もいない,ということ.そして,自分の全く関心のない世界の人からの言葉には耳を傾ける余暇が,そもそもない.

これらは,情報化社会の生み出した化物だとも言える.

そんな,情報化社会の化物たちが国や地域の代表を決める「選挙」がはじまった.地域やコミュニティーの利益代表を選んで国政に送り出す時代が終わった結果,いまの時代の選挙は,一体,「なに」を反映したものを選んでいるのだろうか,などと,クソうるさい選挙カーに午睡を妨害されながら考えたのでした.