2014年1月29日水曜日

バランスを失した世界

かくありたいと願う理想像は誰もが持っているとは思うけれど,私にとっては,バランス感覚に長けた人というのが理想像にある.昔は,もっと尖った,よくある性格診断の結果に描かれる六角形のアートが一点突破して,直線になっているような人間になることに中二病的に憧れたものだけど,歳をとって,変節して,変容して,気がついたら,こうなっていた.

なんとも曖昧模糊な表現で,だからこそ,理想であって現実ではないのだろうけれど,やや "バランスという幻想" を失した感のある世界の中で,自分だけでもバランス感覚を持っていたいという願望は,私の中では自然な感情としてある.

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空気を読む,とか,そういう表現があって,私は,常日頃から,空気は可視光では透明なので読めませんなんて,嘯いているのだけれど,30 年に及ぶ,外界との密接な繋がりに縛られて,コミュニケーションが染み付いた自分が「空気を読めない」なんてことがないので,「空気を読まない」行為の道化に自分自身が可笑しく感じてしまうことも多い.

多分,10 年くらい前まで,バランスという幻想は,幻想としてそこにあったのだろうと思う.ようは,見えないという事実は,存在しない証明にはならないという屁理屈なのだけれど,コモンセンスという言葉で,十人十色を十把一絡げにしてきた世界では,そんな詭弁は不可視で,まかり通っていた.

あんまり具体的な事例は出したくないけれど,例えば,二次元に描かれた児童ポルノの規制云々という話題における,規制をしようとしている人の言う「ドラえもんのしずちゃんの入浴シーンが規制対象にならないくらい常識的に考えて分かるでしょ?」という言葉.そんなものは確かに常識で分かるという思考の放棄と,「しずちゃんの風呂」問題を提起する極北側の人間には,何の橋もかからない.つまりは,建設的な議論は生じ得ない.そして,法が存在しない上に,線引きとなる判例の存在しない世界には,どちら主張もなんの正当性も担保はされていないわけだ.

こういう事例は,ネットワークを介して,個人が簡単に繋がることができ,どんな考え方であっても簡単に発信することができる世界になって,初めて,大々的に発生するようになった最たる事例だと思う.

ルサンチマンの具現化とか,そういう使い古された論評を持ち出すのもバカバカしいくらいにユビキタスは進んで,人は好むと好まざるとに関わらず自分の中に育てていたコモンセンスが崩壊する様を見せつけられることになる時代.そして,コモンセンス,いわば特定のコミュニティのなかの考え方のルールであり,幻想の中の中間値,が崩壊した人にとっては,議論の中心が失われていってしまうことになるのだろう.

こういったバランスの失われた世界は,おそらくいんたーねっつのなかった頃には,普通の人は見ることもできなかったはずで,例えば,右翼の街宣車,新興宗教の勧誘,左翼団体のデモ行進など,普通の幻想に埋もれた人にとって,そういった極北に触れてしまうのは運の悪い事故であったと思う.事故として処理して,忘れていても,誰も困らなかった.そんな極端な事故の例を出すまでもなく,自分の属するコミュニティ以外の集団に出会うことも,そういう集団が存在することも,日常生活の上では知覚し得なかったと言うことでもあるのだろう(世界がもし 1000 人の村だったら,自分がリアルの生活で積極的に関われる世界はせいぜい 10 人くらいだ,といってもいい.僕の口癖みたいなもので前後 10 人の世界っていうもっと危ない話もあるんだけど,それはまた,別な話).

しかし,何の担保もない一個人がフラットに自分の思考を垂れ流せる世界では,どんな極端な思想でも,どんなにニッチな考え方でも,簡単に世界に見せつけることができてしまう.当然,このブログだってそういうもののひとつで,ここにある文章が共感を生むこともあれば,そんなものは生まずに排除されていくこともある.

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結局,なにが言いたいかというと,咲さんかわいい