たぶん,いまの人は昔の人の何百倍〜数千倍も友達を持っている.
友達の機能は,基本的に噂話と内輪話の共有に要約できると思っている.そういう意味で,SNS を通して繋がっているということだけで,友達の機能は十分に満たしていると言えるし,それどころか,2ch の特定の板で無数の同系統の趣味をもつ名無しと話すことでだって,十分に機能としての友達を体験出来る.これは,インターネットのもたらした革新的な世界の形の一つだと,皮肉ではなく,本当にそう思っている.
その一方で,個人的に怖いと感じるのは,無数の友達の間で,個人の経験が拡散されることで,場合によっては,たった一人の個人的な経験が,数千〜数万の人の共有体験になってしまうことだ.
最近,「とある学校で,男性教員が女性の生理用品を『ふしだらなもの』だと思い込んでいて,女生徒の生理用品が没収された」という経験談(?)をみかけた(僕が見かけた時点で,Twitter で数千リツイートされていた).とりあえず,33 年近く男として生きてきて(妹がいたけれど),女性の生理について全く知識を持たないでいることなんてできなかったし(保健体育で習うし),そもそも,あれだけ大々的にテレビ CM で流されているものを「ふしだら」だと思いこめる神経がわからないレベルのトンチンカンさなんだけれど(事実として体験したという人が居たら,その人には大変申し訳ないけれど,僕個人としてはそんな事実があったとは信じられない),その話を発端に,男は女性の生理について何も知らないし,生理に対してネガティブな印象を持っているくらいの論調が生まれていた.
仮に,そういう男性教員が居たのだとしても,非常に不幸な出来事に,ある1つの時代の1つの学校が巻き込まれた,ということでしかないはずなのだけれど,そのつぶやきが拡散されていく過程で,「そんな不幸が事実としてあったのか」と共感した友達たちが,友達の友達に拡散していくだけで,その体験は,共感した人の数だけの一般認識になっていく(事実,僕もこういう風にブログ上で「こういう体験をした人がいるらしい」と噂できるひとりになってしまっているわけだ).これが怖い.
以前も,掛け算の順序に関する話で,掛け算の順序を逆にしたことでバッテンをつけられたとする証拠画像は,10 年近くも 2, 3 パターンの画像が拡散されていることで支えられているように見える(僕にはそう見えるというだけで,事実は調べたこともないから知らない.実態については,この問題に真剣に取り組んでいる人がいるので,そういう人の意見を参考にしてください)というようなことを書いた気がするけれど,これも,根っこは同じだと思う.数少ない経験談が多数の共有体験にすり替わっている事例だと思う.
インターネッツを通じて,簡単にたくさんの友達と内輪話を共有できることで,個人的体験が集団的な体験にすり替わっていく世界は,渡り方を気を付けないと,簡単に暴走する奔流に巻き込まれていくことになってしまう気がする(この暴走云々に関して書きたいこともあるけれど,それはまた,今度).
僕くらいか,僕より年上の古いインターネッツを知っている世代が,最近のインターネッツの世界にトゲトゲしさや危うさ(昔でいう殺伐とかとは違う)を感じてしまうのは,この友達感覚の拡張にあるんじゃないかな,というのが,最近の感想です.